2010年度 森泰吉郎記念研究振興基金による研究助成

 

 

慶應義塾大学大学院

政策・メディア研究科

809240984

板川 暢

 

 

都市河川の生物多様性とエコロジカルネットワーク機能の評価に向けた研究

 

 

 

キーワード:

1) トンボ類 2)都市河川 3)エコロジカル・ネットワーク 4)マイクロハビタット 5)景観

 

 

要旨:

 

1. 当研究では、トンボ類を指標に都市域のエコロジカル・ネットワークの検証を試みた。都市河川において、指標となるトンボ類の生息を規定する要因を明らかにするとともに、得られた情報からエコロジカル・ネットワークの現状を把握し、将来的な形成に向けた指針を提示することを目的としている。

2. 2009年初夏から2010年春にかけて、神奈川県横浜市南部に位置する柏尾川流域でトンボ類の成虫を対象とした調査を行い、221調査区で25種・合計2794個体の出現が確認された。

3. トンボ類の種数およびに6種群の個体数を目的変数、ミクロスケールおよびにマクロスケールの環境要因を説明変数に、一般化線形混合モデル(GLMM)による分析を行った。分析の結果、16項目の環境要因がトンボ類の生息に影響を及ぼしていることが明らかになった。

4. トンボ類の生息・分布は微視的環境(マイクロハビタット)と周辺環境(景観要素)の影響を受けていることが分かった。また、トンボ類の生息に影響を及ぼす範囲として、600mおよびに1300〜1400mという距離が示された。

5. 2010年度夏期にハグロトンボの標識調査を行った。調査の結果から、ハグロトンボの恒常的な移動距離(平均移動距離・中央値)として約200〜300m、移動・分散が行われ得る範囲(最大移動距離)として約1300mであることが推定出来た。

6. 結果を踏まえ、トンボ類の生態・生息情報に基づき、水と緑の関連性に配慮したエコロジカル・ネットワークの形成に向けた指針を提示した

 

研究の目的

<意義>

 エコロジカル・ネットワークという考え方が広く浸透し、計画に取り込まれることが多くなった現在、その機能性と実証性を明らかにすることは、非常に有意であると言える。しかしながら、計画に用いるための生態的情報やエコロジカル・ネットワークの形成に関する情報や基準というものは未だ整備が行われておらず、明確な基準に伴わない計画が立てられていると言っても過言ではない。

 こうした現状を踏まえ、当研究では、指標種としてトンボ類を取り上げ、その生息情報と微視的な要素と景観レベルでの要素との関係性、およびに水と緑の関係性についての検証を行う。都市河川に生息するトンボ類の生態的特性を明らかにするとともに、エコロジカル・ネットワークの指標となる生態的知見を整理し、都市河川を対象に生物の生息・移動を考慮したエコロジカル・ネットワークの作成に向けた指針を提示することを目的とする。

<目的>

 当研究では、都市河川におけるハビタットタイプとそこに生息するトンボ類との関係性の解明が期待される。今までも着目されてはいたものの、積極的に着手されてこなかった都市河川が持つ環境要素について取り上げていることが、この研究の特徴である。流水環境、そして都市部・市街地を対象とした当研究は、既往研究とは異なる視点でのアプローチが出来るとともに、そこから導きだせるトンボ類とっての都市河川における良質なハビタットタイプの提示が可能であろう。

 また、エコロジカル・ネットワーク形成に向けた具体的な手法が提示されていないとこと(国土交通省 都市・地域整備局 公園緑地・景観課, 2010)や、水と緑の関連性が明らかなっていないことが指摘されていることから、具体的な指針が示されることがなかったエコロジカル・ネットワークについて、当研究において新たな指標を提示することは意義のあることであると言える。特に、施策の方針をシナリオに沿って示すことは、早急な対応が迫られている計画主体や実務者に有用な情報を提供することが可能である。

 

研究・調査の方法

 当研究では、神奈川県横浜市の南西部を流れる柏尾川流域を対象とし、トンボ類の分布情報を指標に河川空間と生息環境およびにエコロジカル・ネットワークの評価を行う。

調査対象地

 神奈川県横浜市の南部を流れる柏尾川流域の河川、柏尾川本川およびに河川次数(本川の河川次数を1次とした場合に、本川に直接合流する支川を2次とした)が2次の支川である阿久和川,平戸永谷川,舞岡川,いたち川,関谷川の6河川を対象に調査を行った(図1)。柏尾川は、2級河川である境川の支流であるが、「横浜市水と緑の基本計画」において、「河川を利用した水と緑の回廊軸」として指定されており、将来的に達成すべき「水と緑の回廊像」の骨子を担う河川である。対象河川は市街地を流れる都市・中小河川で、基本的にコンクリートなどの人工構造物による護岸整備が行われており、自然由来の護岸は存在しないが、親水空間や近自然工法による護岸・河床整備が積極的に進められており、水質の改善およびに生物相の回復が進んでいると報告されている。

 各河川の源・上流部には緑の基本計画の中で「緑の七大拠点」に指定されているまとまった緑地が残されており、阿久和川の支川である名瀬川・子易川の源流部には「大池・今井・名瀬」、平戸永谷川・舞岡川の源流部には「舞岡・野庭」、いたち川源流には「円海山周辺」が展開している(図2)。これらの緑地は、市街化調整区域もしくは風致地区に指定されており、包括的な保全がなされている。一方で、中流域では戸塚駅周辺の一般住宅地や工業・物流の集積地が広がっており、小規模な緑地などが残されているものの、その殆どが孤立した状態である。また、環境省レッドデータブックで絶滅危惧ⅠA類に指定されているミズキンバイが広く生育しており、ミズキンバイと昆虫類やイトトンボ類の生息・分布状況の関係についての既往研究では、ミズキンバイ群落が昆虫をはじめとした生物群の優良なハビタットとして機能されていることが報告されている。

 分析に際して、調査を実施した部分を100m 毎に区切った調査区を設定した。都市河川は、河川整備や近自然工法による護岸の状況の違い、橋などの構造物の有無、水生植物の分布などの微視的な環境が短い間隔で変化しているため、こうした差を極力配慮するために、100m という比較的細かい区分を設けることにした(図3)。調査区の設定方法は、国土地理院発行の数値地図25000(空間データ基盤)(2003)に含まれている河川中心線から調査実施箇所を抽出し、GIS(ESRI 社 ArcGISDesktop 9.3.1)を用いて100m 毎の線分を作成した。数値地図の河川中心線には、河川整備による河道変更などが原因と思われるずれが生じていたため、横浜市都市計画局提供の都市計画基礎調査(2008 年度土地利用データ)を参照し、若干の修正を加えた。

図1_対象地概要

図2_緑被地現況

図3_調査対象河川およびに調査区位置

環境要因調査

 生物の生息には、マクロスケール(景観,マトリクス)からミクロスケール(ハビタットの質)まで広範囲にわたる環境の影響を受けているとされる。飛翔移動能力が高く、生活環の中で利用環境が多岐にわたるトンボ類は、ハビタットの選択に周辺環境の影響を受けていることが予測される。また、個体の供給源となるパッチやソースからの空間的距離が生物相の生息に影響していることも近年議論されており、生息に最適な条件が整っていたとしても、生物の移動・分散が適切に行われないことが予測される。

 そこで、トンボ類の生息を規定する要因として、河川が持つミクロスケールの環境要因と周辺環境が及ぼす影響としてマクロスケールの環境要因の中から、特にエコロジカル・ネットワークを議論する上で重要であると考えられる要因を選定した。

トンボの分布調査

 調査対象地域においてラインセンサス法を実施した。河川に沿って、安全に調査が可能な範囲で最も近づける場所を歩き、水域・陸域側のそれぞれ幅10m 程度の範囲を対象とし、目視に依る出現個体の同定およびに計数を行った。記録にはハンディGPS(GARMIN GPSMAP60CSx)を用い、トンボ類を確認した場合に確認地点の位置情報,種名,個体数などを記録した。調査の努力量を均一にするために、一定の歩行スピード(おおよそ100m/5 分)を定めた。肉眼による確認が困難な場合は双眼鏡などを用い、さらに目視による同定が困難な場合、もしくはその場での同定が難しい場合は、捕虫網で捕獲して持ち帰り、図鑑を用いて同定を行った。

 調査時期は、初夏(2009 年6 月下旬~7 上旬),夏期(8 月),秋期(9 月末~11月上旬),春期(2010 年5 月~6 月上旬)の4 回の調査を行った。これは、トンボ類の多くが晩春から初秋にかけて活動するためである。調査の実施日およびに時間帯は、前日に目立った降雨がない、晴天もしくは薄曇りの日の10 時~16 時までとし、概ねトンボ類が活動すると思われる天候・時間帯を選択した。また、トンボ類をはじめとした昆虫類の多くは、種によって活動する時間帯が異なることが報告されていることから、当調査においても、各回の調査でそれぞれの調査区の調査時間
帯がばらつくように心掛けた。

分析手法

 当研究では、河川間の誤差を考慮するために、説明変数は固定効果、定数項(切片)に河川レベルのランダム効果を加えた一般化線形混合モデルによる分析を行った。これは、整備状況の違いのような定量的に扱うことの出来ない要因や、当研究では変数として加味していない流域レベルの要因など、河川間に存在する差異に配慮するためである。

 目的変数には、トンボ類の種数,合計出現個体数およびに流水性種,止水性種,アカネ類,イトトンボ類の個体数を用いる。エコロジカル・ネットワークの指標として、単一種よりも複数の種群を扱うことが望ましいとされることから、包括的な指標として種数と合計出現個体数、さらに生息地タイプや分布の広さ
といった生態的特性、産卵形態や食性などが似る近縁種群を目的変数として扱うことにした。それぞれの種がどの種群に属するかは、表1 に示した。説明変数には、先述の環境要因を用いる。

表1_トンボ類の種名一覧およびに分類

 

調査結果およびに分析結果

調査結果

 4 回の調査を通して、トンボ類(トンボ目)の成虫25 種・合計2794 個体が確認された。各期の調査毎の確認個体数は、2009 年の初夏の調査では254 個体、夏期が1922個体、秋期が367 個体、2010 年の春期で251 個体が記録された。221 箇所の調査区のうち、最も確認種数が最も多かったのが10 種、確認個体数が最も多かったのが167個体であった。一方で、4 回の調査で一度もトンボ類の出現が全く確認されなかった調査区は23 箇所あった。

 当調査で記録された種の和名およびに学名は、以下のとおりである(表1)。このうち、6 種が流水性種、19 種が止水性種であった。また、全体的に環境の初期遷移段階に出現すると言われる種やどんな環境においても普遍的に見られる種、いわゆる普通種で構成された。神奈川県レッドデータブックで絶滅危惧ⅠB 類に指定されているチョウトンボ、準絶滅危惧種に指定されているモノサシトンボをはじめ、要注意種に指定されている8 種が確認された。

分析結果

 各調査区におけるトンボ類の出現種数,合計出現個体数およびに流水性種・止水性種・アカネ類・イトトンボ類の個体数を目的変数に、環境要因との関係をGLMM で分析し、トンボ類の生息を規定する環境要因の推定を試みた。切片に河川間の差を加えたランダム効果は、それぞれのモデルで取り入れられた(表2)。

表2_一般化線形混合モデルの分析結果