2010921日(火) 18:00-19:40

 

話し手:

役員

G.Hさん

 

聞き手:山口 祥弘

 

1.      背景

 やはり、据え置き型事業本部 据え置き型開発部門長のA.Nさんへのインタビュー冒頭で、G.Hさんのお話しを伺い、インタビューのお願いを9/8(金)にメールにて差し上げました。役員の中でも立場の高い方ですので、本当に駄目元と言う思いでした。しかし、下記通り快諾のメールが9/13(月)に届きます。その後、やはり秘書の女性と日程調整のやり取りがあり、9/21(火)の19:00本社にあるG.H役員室に通されます。なお、G.Hさんのお部屋も西谷さん同様、周りを壁で区切られた個室となっており、8畳正方形です。窓はありますが、ブラインドがかかっています。お部屋に通されると、英字新聞の類や、英語のIT系やパテント系と思われる専門雑誌類があちこちに見られ、情報収集に余念のない様子が見受けられました。

 G.Hさんは社内で、ビヨンド社ITビジネスの立役者として知られます。それまでオーディオ、ビデオに限定的だった企業カラーをITにも向けた、と言われています。一言一言、とても慎重に、そして考え抜かれた言葉によってお話しするスタイルで、その人がいるだけで場の雰囲気さえ作ってしまうようでした。

2.      内容の概要

 私がドギマギしていると、私がなぜ、大学院にまで行ってこの調査をすすめるのか、とG.Hさんから質問を頂きました。私は、最近社内のイノベーションにかける情熱がストップしているように見える、これを打破したい思いと、今までのビヨンド社はこんなではなかった筈であることを証明したい旨、そしてその活動が大学院の学位よりも、自分の信念を証明したい「意地」であるとお答えしたところ、「それは面白い」と聡明そうなお顔を斜めに向けながら、にやりと笑っていました。

 G.Hさんは、1970年代初頭、ビヨンド社内部にあった半導体技術を元にリリースされたBEBOXと言う電卓についてお話をされ始めました。電卓と言っても当時は26万円もして、据え置きレジの機械ぐらい大きい、超高級商品です。この商品はファウンダーD.AE.Nらと方と並べるY.E元社長によって実現した商品だと言います。当時、「D.A大が技術を見つけ、Y.Eが作り、E.Nが売った。」と後に語られています。残念ながらSOBASKA社らとの競争が激化する中、E.Nさんの判断でディスコンとなりますが、ビヨンド社ITへの系譜はBEBOXから始まったのです。

 

35周年事業

時代はウォークマンやベータマックスが華やかなりし1978年ごろ。35周年事業として、E.Nさん会長プロジェクトとY.Eさん社長プロジェクトの2つが始まります。当時のビヨンド社には、4ビットマイコンを自社で開発、製造。社内いくつかの商品で適用されていたと言います。Y.Eさんは、これらディジタル 集積回路技術を用いたIT系製品をちゃんと商品化せねばならない、と考えていました。しかし時代は、AP社が伝説のAP-Iをリリース(1976年)したような時代です。オープンアーキテクチャPCのリリースに至っては1981年を待たねばなりません。そんな時代背景の中、Y.E社長プロジェクトとして始まったのが、英文ワープロ WD85 プロジェクト『イオタ』です。日本にはまだワープロなんて言葉などなかった当時。イオタはCPUに、当時最も使われていた8bit CPUである、ZRZ80を採用。1980年代のマイコン・ブームを知る方ならわかると思いますが、当時はまだOSなどと言う概念は市民権を得ていません。C言語などと言ったプログラム言語も、高級言語と言われる通りメインフレームのような巨大なコンピュータでしか実現されていません。よって、ライブラリや外で作られたソフトウェアを「全く」アテにすることなく、ほとんどCPUの命令セットと11であるアセンブリ言語を用いて職人芸とも言える高い技術作業の中で開発されます。Macかと思う洗練されたデザインのプロダクトはビヨンド社がリリースした英文ワープロ、WD85。なんと3.5インチFDドライブを2基搭載。当時、5インチまたは8インチが当たり前だった当時、しっかりとした耐久性を備えた3.5インチFDを、このワープロのために作ってしまったと言います。それだけではありません。当時はキャラクターベース方式の表示しかなかったCRTWYSWYD機能を盛り込むべく、ビットマップばりの工夫を凝らしたり、ポストスクリプトと言った印刷のための標準インターフェースが決まっていないこの時代、プリンターの印刷単位はピクセル単位で"作り込んだ"。そのエレガントさの裏側は、とんでもない技術的知恵と努力の集積であったと言えます。

 

AVITの融合

一連のIT技術は、マイコン(1980年代、パソコンの事をマイコンと言った)を世に送り出さんと厚木に集結します。同じZRCPUを用いた CP/M搭載の普及型高級機 BXG-88 と、AC社が提唱するオープンアーキテクチャ共通規格マイコン規格の8bitマイコンと、次々にリリースしていきます。そのようなIT系商品への挑戦は、次第に、音楽や映像がコンピュータに統合されていくことを予感させて行きます。しかし、ShellOSもまともに動かなかった時代、今では当たり前のAVITの融合も、決して社内で簡単に理解されるものではなかったと、G.Hさんは振り返ります。そんな中、G.HさんはA.NさんやH.Nさんらと、動画をmpegフォーマットにしてCDの中に入れてしまう構想、CD-ROMCDI MMCDと言った仕事を進めます。コンピュータ用CD-ROMを最初に商品化したのは、かのスティーブ・ジョブス率いるアップルであり、業界で最も熱心に推進していたのはかのマイクロソフト社、ビル・ゲイツだったとG.Hさんは懐かしむように語りました。つまり、コンピュータ業界にとって、AV IT の融合は、業界全体の流れであった、とG.Hさんは振り返ります。

AVITの融合は目前、もう一度、コンピュータのビジネスにビヨンド社として追いつきたい。しかし、当時、トップマネージメントとして、一連のIT系ビジネスを見ていた、小寺 淳一さんは、「もう席は残っていないかも知れない」と漏らしたと言います。しかし、そんな中、F.Mさんの鶴の一声で、新型パソコンシリーズは立ち上がっていきます。 OS-50後期に立ち上がった新型パソコンシリーズ、その後の OS-55AV ITの融合は一つの終着をみた、とG.Hさんは語ります。しかし、その道は常に平易なものではなかったと言えるでしょう。

 

イノベーションに向けて

G.Hさんは「僕は常に裏街道だったよ」と苦笑いします。ビヨンド社にはオーディオ・ビジュアルの商品化ノウハウによって支えられていました。そんな中、コンピュータの能力が上がるにつれ、ソフトウェアが現在のAV商品にとって代わるだけのパフォーマンスを持つ、と言う言説は、当時、簡単に受け入れられるものではありません。しかし、G.Hさんは業界全体における、AV-IT融合の流れを、メンバー一人一人が各々感じ取って実践していた、とふりかえります。

新型パソコンシリーズの立ち上げは、本当にまともなものではありませんでした。それは私もその現場にいたから良く分かります。初代新型薄型ノートパソコンはオフィスソフトをインストールすると立ち上がらなくなる問題と言うのが発覚し、パッチ・ディスクを持って量販店を行脚する羽目になったことを懐かしそうに振り返ります。恐らく、当時老舗のコンピュータメーカーであった、NC社、FT社らは、ビヨンド社の素人ぶりを嘲笑したかもしれません。しかし、商品を立ち上げるのに、玄人じゃなくたって良い。なんとかなっちゃうものだ、とG.Hさんは笑っておっしゃいます。業界の流れとしての AV-IT の融合。それに向かって一致団結できたからこそ、世に新しいものを問えたのではないか。

 

「ワイワイ ガヤガヤ」、目標に向かって走り続ける「素人集団」

経営学や組織論なら、パフォーマンスの高い専門家集団が、イノベーティブなものを作り上げると言うかもしれない。しかし、実際の現場は、そんなものでもないことが多い。「こういうものを作るべきだ」「こういう面白い技術で世界を変えるんだ」と言う気持ちが、その商品を軸に「ワイワイ ガヤガワ」しながら、前に進み続ける。G.Hさんはビヨンド社の企業文化をそのように分析しています。分野は素人集団だったとしても、しかしその気概はみな一致団結している。経営視点からは打破できない物をそういうものが打破していく。

 

今一番面白そうな分野に自ら入って行き、参加し、世の中を変えて行こうと言うモチベーションこそ大切、と言います。その意味で、「今楽しんでいますか」とG.Hさんは問いかけています。そのことが、今何がルールになっていて、何をするべきなのかシェアしていくのだ、と。そういう態度が、産業界を巻き込んで大きな流れを作っていく。

イノベーションの内容はこの数年でものすごく変わっている。そういうものに気が付き、次を語れる人がいないといけない。この時代に何が必要か、それを提案して欲しい、とおっしゃっていました。