2010924日(金) 17:00-18:50

 

話し手:

医療関係事業室 次世代ソフトウェアGp 部長

F.A 進さん

 

聞き手:山口 祥弘

 

1.      背景

 F.Aさんは、新型パソコンシリーズ圏で「ゲンさん」の愛称で知られる有名人です。私は1996年からノートブック新型パソコンシリーズの立ち上げに関わっており、A.Nさん同様、F.Aさんにはその時にお世話になった経緯があります。F.Aさんは、新型パソコンシリーズ設計部隊が全部SNT長野テックに移管になる際、ご家庭の事情などで異動できなかったと言うことがあり、そのため、今までのF.Aさんが持つキャリアを知らない部署に異動せざる追えない状況にありました。同様の社員は何名かおり、そのような人達を束ねて異動先部署を探すための部署を任されたりしていますが、持ち前の明るさで、その部署でも勉強することを積極的に見つけて、グループを作って勉強したりしていたそうです。何しろ、とても明るく、謙虚な方です。

 現在は、医療関係事業に異動されたようですが、インタビュー当時はまだ異動先は決定していなかったようです。9/8にインタビューのお願を差し上げたところ、秘書の方もなく、以下のようなフランクなメールが届いたのでした。

F.Aです。

やまGoo   おひさしぶりです。

イノベーションのための組織論か、、、相変わらず、すごいことやってるな。

インタビューの件、了解です。

(中略)

では、会える日を楽しみにしています。

 

F.Aさんはそのような時期と言うこともあり多忙でした。インタビューは少し遅れて9/24(金)17:00-18:00、本社会議室にて行われました。会議室は通常業務で使われる会議室で、8人掛けのテーブルがある、6畳くらいの小さな会議室でした。ワイシャツを腕まくりして、こちらまで楽しくなってしまうほど明るい雰囲気を振りまきながら現れました。

 

2.      内容の概要

マギックポッド藤沢の居酒屋『藩』で、F.Aさんが悔しそうにお酒を呑む姿を私は覚えています。超薄型ノートパソコン、プロジェクト・ネームYebisu2の前身であった、Yebisu1のプロジェクト中止が決まった時でした。当時、新型ノートパソコンシリーズの部隊には、2つの設計チームが走っていました。DL OEM時代のアーキテクチャをそのまま継承して立ち上げるF.Aさんの設計チーム(プロジェクト名:Yebisu)と完全なビヨンド社設計で挑戦しているA.Nさんのチーム(プロジェクト名:Benten)です。スケジュールはYebisuが先行、次いでBenten(後の薄型ノートパソコン)が登場する筈でした。Yebisu1は主にF.Aさんが嘗て設計PLを行っていた携帯端末マギックポッド(写真)部隊の元メンバー。メンバーのコンピュータに対する思いは高く、その夢を一人ずつ汲んで検討されたYebisu1はとても大きなサイズのノートPCになっていた、とF.Aさんは当時を振り返ります。EVT試作出図まで終わっていたこのYebisu1、当時の部長であるG.Hさんが「待った」をかけます。超薄型ノートパソコン藩の吞み会から心機一転、F.Aさん率いるチームのYebisu1改めYebisu2への挑戦が始まります。チームのモチベーションはとても高い。しかし、その思いを汲めば汲むほど、ありきたりのノートPCになってしまったと言います。そんなF.Aさんの隣にいたA.Nさん、「みんなが求めているものはこんなものじゃなくて、もっとカッコよくて薄いものだろう?!」と一喝。一気に目が覚めた、と当時を振り返ります。そこから、Yebisu2は、『B5でカッコイイ』を合言葉に、設計検討がみんなで行われていきます。ここで特徴的なのは、コンセプチュアルを目指しつつ、みんなでその仕様検討したところでしょう。G.Hさんの言う「ワイワイ・ガヤガヤ」がここにも見えます。みんなで作りたいモノを共有しながら、且つコンセプトに従って割り切った製品設計を行ったのです。

当時のエピソードに、当時、8.45mm1GB HDDか、9.5mm2GB HDD(容量はうろ覚え)を考えた時、F.Aさんチームは8.45mmの採用を選びます。「薄さ」への拘りはPCとしての当時当然と考えられていたHDD容量の大きささえ割り切ったのです。RGBの出力ポートも割り切ってポートリプリケータープリケーター側に出してしまいました。メモリのフタが美しくないからやめよう、と言う意見さえ出たと言います。これは検討の結果、却下されたと言いますが、兎に角ひとつひとつが議論に議論を重ね、喧々諤々、「みんなで決めた」のです。

超薄型ノートパソコンの特徴と言えば、四面マグネシウム合金。これはそれでなくとも加工が難しく、資材部の猛反対を押し切って「カッコよさ」に拘った結果だと言います。しかし、一つ諦めた「カッコよさ」があったと言います。超薄型ノートパソコンより2年後に発売された後継機では、パネル背面の新型パソコンシリーズの文字がヘコんでいます。これは、ゲーム機のデザインなどで知られる、B.Bさんの拘りです。しかし、これはとても難しい製造技術の賜物であり、初代超薄型ノートパソコンの時代には、不可能な芸当だったのです。当時、B.Bさんは、そのデザイナーとしての威信をかけて、当時社長の安藤さんにヘコ文字を進言。F.Aさん初めメカ担当者(M.Eさん)が呼び出されます。しかし、当時、G.Hさんから現場の部長を交代した、E.Oさん、「死人が出かねないほど、大変なんです!!」。四面マグネシウムを押し切ったのがしまけいさんならば、設計的無理を即座に判断したのもまた、しまけいさんだったとのことです。結局、この時の新型パソコンシリーズロゴを「ヘコ文字に見えるような」印刷で調整されました。

 

しがらみの少なかった幸運

このような、最終的には割り切ることこそあれど「自由闊達に」「みんなで決める」ことを可能にしたのは、既にYebisu1がディスコンとなり、 薄型ノートパソコンがビジネスの表舞台に期待されている状況の中、ビジネス的なプレッシャーと言うしがらみが少なかったことが、このような「自由闊達」な「ワイワイ・ガヤガヤ」を担保したのではないか、F.Aさんはそうおっしゃいます。利益優先だと組織はどうしても利益に対して最適化せざる追えません。「赤字は国賊」と言ったのは、ビヨンド社役員のどなただったか。ブレストをやりながら、やれることをお互いが理解して行き、そのアサインは決定こそF.Aさんがされるものの、基本的には自然と役割が決まったと言います。

 

超薄型ノートパソコンへの道のり

超薄型ノートパソコンは、マギックポッドの部隊出身の方々が主体となっていた部隊です。F.Aさんによると、超薄型ノートパソコンへの人材の集まり方は、ビヨンド社におけるコンシューマ向けコンピュータービジネスの流れにあるようです。F.Aさんは電気回路設計のエンジニアですが、BXG-99cからPLを務め、その後、共通規格マイコン の部隊と合流してPT0と言うハンドヘルド・コンピュータの後継機に関わっています。そのあたりの知り合いが、新型パソコンシリーズ立ち上げに関わって言ったため、「とても自然に人が集まった」印象だったとのことです。F.Aさんは「それまでビヨンド社はコンピュータ関係で鳴かず飛ばずだった。超薄型ノートパソコンでやっと恩が返せた思い」と語ります。これらコンシューマ向けコンピュータ系商品の歴史は、設計者F.Aさんの歴史そのものでしょう。或いは、F.Aさんの歴史に裏付けられた、目に見えぬ人の繋がりもまた、自由闊達なる組織のための立役者だったのかも知れません。

 

奥様の進言

F.Aさんの歴史に一つ、特筆するべきエピソードがあります。マギックポッドの設計のため、USに赴任していたF.Aさん。当時、F.Mさんがインテルとの協業、GIプロジェクトでデスクトップPCの立ち上げがUS主導で行われる代わりに、マギックポッド部隊は帰任になることに。その時、 マギックポッド部隊のメンバーには2つの選択肢がありました。USに留まり、インテル協業でデスクトップPCを立ち上げるか、日本に戻ってノートPC を立ち上げるか。USデスクトップPCは、インテルがその回路設計を行うことが決まっているため、設計的に行うことは少ない。しかし、まだUSに来て1年半であったF.Aさんは、もう少しUSに留まるべきなのでは、と迷います。

そんな時、背中を押したのが、奥様の一言「あなたは、自分で小さいオリジナル製品を作りたいのじゃないの?」だったと言います。もし、その言葉に従って日本に帰任しなければ、超薄型ノートパソコンも生まれなかったかも知れない、と笑っていました。

 

最後は「人間力」

F.Aさんには、社内の少林寺拳法部で鍛錬する一面もあります。F.Aさんに拠れば、少林寺拳法は中国の方法をそのまま輸入したものではなく、戦後日本の「心の支え」となるべく「本当の強さ」を求めたものであることを教えてくれました。F.Aさんは組織もまた、人間力としての強さがなくてはならない、と言います。以下は、インタビュー後にF.Aさんから教えて頂いた、少林寺拳法の開祖 道臣(そう・どうしん)のお言葉です。

 

人、人、人 すべては人の質

すぐれた一人の人間に、まず自らをおく。

 

一人のいい息子が生まれたということによって、家庭がころっと変わります。一人ぐれた前科者が出ると、その家庭がみんな迷惑する。こういうことは諸君の周辺にごろごろしてるでしょう。すぐれたもの一人が、いかに重要かということである。 我々は、まずそのすぐれた人間にまず自(みずか)らをおこうではないか、そして周辺にもいい影響を与えようではないか、こういう教えなのだ。

すべては人間の質の問題だ。

 

この世の中のこと、すべて人間が行い、人間が支配し、管理し、計画しておる。人間の質の問題ですよ、これはね。よくなるのも、よくならんのも、要するに人ひとり、そのポストに立っておる人の心の持ち方にある。こういうことで心の改造をやろうとしているのが宗教、特に金剛禅の大特徴である。

考え方を変えることによって理想境ができる。

 

人間の考え方を変えることによって理想境ができるという私の考えは、決して誤りではない。これは、つくらなければならんものです。半ばは相手の幸せを考える者がふえたら、世の中、本当によくなる。これは間違いありません。

 

引用元:創始者 宗道臣について|少林寺拳法公式サイト|SHORINJI KEMPO OFFICIAL SITE: