2010年度森基金研究成果報告書
慶應義塾大学 政策・メディア研究科
所属プログラム:GR
修士課程1年 折原健太
1.研究の進捗
筆者は、入学からと現在にかけて、以下のように研究テーマを変更している。
変更前:
日本の政府開発援助(ODA)報道の影響力に関する研究
変更後:
「人間の安全保障」の拡大と変容―日本型概念の形成過程―
端的にいえば、変更前の研究は漠然としすぎており、修士課程における研究として成り立つのかどうか、疑問が生じたためである。変更後の研究と比較した時、テーマ自体は大幅な変更があるものの、メディアの影響力と言う点に重点を置いている点に変わりはない。次項においては、変更後の研究計画を記載させていただくこととする。
2.研究の概要
●研究題目:「人間の安全保障」の拡大と変容―日本型概念の形成過程―
1.問題意識
「人間の安全保障」という言葉が台頭して久しい。これまでの「国家の安全保障」とは異なり、個々人の安全に焦点を当て、@貧困や経済格差の緩和を目的とする「欠乏からの自由」A内戦や政治的暴力からの保護を目的とする「恐怖からの自由」という、大きく分けて二つの政策目標を有するものである。その「人間の安全保障」を主唱しているのは、「軍事大国」ではない日本やカナダなど「中級国」(middle power)であり、両国の重要な外交の柱である。他方、カナダが「人間の安全保障」の重点を「恐怖からの自由」に置き「保護する責任」など人道的介入の意味合いを含むのに対し、日本は「欠乏からの自由」に着目した、あくまで当事国の同意と非軍事的な手段により人権と基本的自由を実現しようとするものとなっている。この違いが生じたのは、単に国家の経済協力政策の特質の違いによるものなのだろうか。
近年、「人間の安全保障」の観点から、国家からのアプローチだけでなくビジネスの面でもアフリカなどの貧困削減に積極的に取り組むべきだとの意見も聞こえる。また同概念は、日本ブランドとして世界を牽引していると評価される一方、言葉のみが先行し現場が置き去りにされているという批判も少なくない。評価が大きく二分されるようになった背景は何なのだろうか。
2.研究の概要と目的
以上のような問題意識から、本研究は、日本の国際協力のうち、「人間の安全保障」に着目をする。1994年以降登場した同概念は、日本においては1998年12月に小渕恵三首相(当時)が、第1回「アジアの明日を創る知的対話」において、「人間の安全保障」についての考えを表明、同月中に、ハノイでの政策演説の中で国連に5億円規模の「人間の安全保障基金」を設立することを発表した。以降、カナダとも異なる日本型の「人間の安全保障」政策がどのようにして形成されたのかを分析する。この分析を通じて、言葉だけがあたかも“フライング”したような格好になった背景や要因を明らかにする。
3.研究の背景
<「人間の安全保障」の誕生経緯>
「人間の安全保障」という概念が生まれたのは、冷戦終結前後まで遡る。米国対旧ソ連という対立構造が終焉を迎えたことによる「世界平和の到来」という楽観視は覆され、「東西対立」の枠組みに抑えられていた部族対立や宗教紛争が噴出した。国家間戦争よりも国内紛争が多発する中、解決の手段として主権国家に対する内政干渉の是非が問われ始めたのである。
そのような状況下、1994年に国連開発計画(United Nations Development Programme:UNDP)は『人間開発報告』の中で「人間の安全保障」について触れ、個々人の生命と尊厳を重視することが重要であると指摘した。その後、2001年に創設された「人間の安全保障委員会」(共同議長:緒方貞子、アマルティア・セン)は、2003年に最終報告書を出し、その重要性を強調した。最終報告書では、「国家は安全保障に引き続き一義的な責任を有するが、安全保障の課題が一層複雑化し多様な関係主体が新たな役割を担おうとする中で、われわれはそのパラダイムを再考する必要があろう。安全保障の焦点は国家から人々の安全保障へ、すなわち「人間の安全保障」へ拡大されなくてはならない」と言及、以降、世界に波及することとなった。
<日本の「人間の安全保障」政策>
日本政府が掲げている「人間の安全保障」の視点に立った取り組みは4項目ある。すなわち、@人間の安全保障基金A人間の安全保障委員会に対する支援B人間の安全保障フレンズC会議・シンポジウムの開催である。
このうち、人間の安全保障基金は日本が1999年に国連に設置した基金で、国連関係機関のプロジェクトを支援するものである。対象プロジェクトは、貧困や環境破壊、紛争など人間の生命を左右する脅威を扱い、環境保護や女性の能力強化などの問題を包括的に扱うことが望まれている。この人間の安全保障基金に対し日本は、2007年度までに累計354億円を拠出、国連に設置された信託基金としては最大規模のものとなっている。
二国間援助のスキームとしては、草の根・人間の安全保障無償資金協力が挙げられる。NGOや地方自治体に対して凡そ1000万円以下の資金協力を直接行うものである。その他のスキームに関しても、近年は「人間の安全保障」の観点が盛り込まれている。2003年に改定されたODA大綱においては、基本方針の中に「紛争・災害や感染症など、人間に対する直接的な脅威に対処するためには、グローバルな視点や地域・国レベルの視点とともに、個々の人間に着目した「人間の安全保障」の視点で考えることが重要である。このため、我が国は、人づくりを通じた地域社会の能力強化に向けたODAを実施する。また、紛争時より復興・開発に至るあらゆる段階において、尊厳ある人生を可能ならしめるよう、個人の保護と能力強化のための協力を行う」と規定されている。また、2005年に発表されたODA中期政策においても、「人間の安全保障」の考え方や援助アプローチについても言及されている。
4.分析の枠組み
<仮説>
本研究は、「人間の安全保障」が、最低でも言葉として広く波及するに至った要因を、以下のように仮定する。
仮説@ ODA予算額減少を鑑み、国際的プレゼンスを維持するための、或いは国際的要請を満たす代替
案として期待が高まった。
仮説A 日本の歴史的経緯から、国家の安全保障以上に取り入れやすかった。
仮説B 緒方貞子・JICA理事長のリーダーシップが大きく作用した。
<研究手法>
これらの仮説を証明するため、本研究では国会論議、首相・外相演説、外交に関する公文書・公刊書などを分析対象とする。「人間の安全保障」という文言の出現頻度が、時系列的にどのように変化してきたのか、どのような文脈で語られてきたのかを分析することによって、各要因との因果関係を模索する。また、第三の仮説に関しては、同時にメディアなどにおける報道の様相にも着目する。たとえ「人間の安全保障」という文言が登場しなかったにせよ、緒方が同概念にもとづいた発言をすることで影響力を持つと考えられるためである。
加えて、これらの分析を補完するため、省庁やJICAなどへのインタビューを実施する。特に第三の仮説はテキストデータのみからは判断が難しいため、判断の根拠をインタビュー結果にも求めたい。
5.先行研究
<「人間の安全保障」の国内的議論に着目した研究>
・山影統、小島朋之「日本政府と国内の「人間の安全保障」認識の乖離−国会の議論を中心に」『総合政策学ワーキングペーパーシリーズ』No.98(2006年3月)
<「人間の安全保障」の政策変化に着目した研究>
・上田秀明「「人間の安全保障」の発展」『産大法学』第44巻2号(2010年9月)、650〜629頁
<日本の「人間の安全保障」の国際的位置づけに着目した研究>
・和田賢治「「人間の安全保障の政治的有用性に関する一考察」『国際協力論集』第14巻1号(2006年7月)、77〜98頁
先行研究との違い
上記で挙げた以外にも、「人間の安全保障」に関する研究は数多く存在するが、そのほとんどが、実際の現場での適用や事例研究、または政策の「結果」の変化に関するものである。本研究では、特に後者の研究に不足している、政策かっていまでの「過程」に着目をする点で、先行研究との違いが存在する。
6.研究意義
これまで、「人間の安全保障」に関する研究は数多くなされてきたが、その多くは日本政府としての個別具体的な取り組みに焦点を当てたものであった。その他、政策の変化に着目したものもあるが、「人間の安全保障」を日本ブランドとして強く推し進めるに至った経緯や政策過程を取り上げた研究はない。本研究は、「人間の安全保障」にかかる政策過程をたどることでこれらの研究の溝を埋めるとともに、概念が拡大した背景を見ることで、「言葉だけが独り歩きしている」とも揶揄される所以を明らかにすることができる。
3.研究者育成費の使途
1.支出の概要
いただいた研究者育成費は、研究環境整備やフィールドワークに必要な物品の購入、書籍購入に充てさせていただいた。以下、主な
購入品目と購入目的である。
@USBメモリ(32GB):研究資料等のバックアップや持ち運び
ASDHCカード(32GB):フィールドワーク時の写真記録
Bカメラ用フラッシュ:フィールドワーク時の撮影機材
C書籍(4冊):研究資料(主に上記研究の参考となるNGO関連、人間の安全保障分野のもの)
2.当初計画(森基金申請書、2010年5月6日提出)との齟齬
当初予定していた海外フィールドワークに関しては、私費により実施した。渡航先はタイ・バンコクに設定し(2010年11月実施)、現地調査及びインタビュー調査に徹した。特に後者に関し、多くのメディア関係者から貴重なお話をいただくことができた。新聞記者の目線から、国際協力に関してどのようなアプローチを図っているのか/取材をしているのかなど、メディアや報道を主たる研究対象とする筆者にとり、有意義な意見を頂戴した。
また、購入予定であったカメラに関しては他の研究助成金(プログラム費)から捻出をし、その分浮いた差額を、前述の用途に使用させていただいた。
結果、この1年間においては大きな不自由なく研究に邁進することができた。心より感謝申し上げます。