2012年度森基金研究成果報告書

保存血液モデルライブラリの構築と品質評価表の作成

政策・メディア研究科博士3年 先端生命科学プログラム

西野泰子

学籍番号: 80949181

Abstract

血液の代替物(人工血液)は現在においても実用化されておらず、献血による供給に頼らざるを得ない状況である。少子高齢化が深刻化する中で献血者数は減少傾向にあり、限られた血液資源を有効に活用するためにも、血液の長期保存を実現することは重要な研究課題である。我々は保存赤血球の代謝を模したコンピュータシミュレーションモデルの構築と解析により、輸血用の保存血液が劣化する原因メカニズムの究明をこれまで行ってきた。また、近年の科学の進歩により、保存血液研究においても大量かつ網羅的な実験データの取得が可能になったが、実験研究者がそれを解釈するのは容易ではない。そこで本研究では、大量かつ網羅的に測定されたデータの解釈と、これまで進めてきたシミュレーションによる血液保存法の開発を支援する目的で、保存血液モデルライブラリの作成を行った。また、保存血液の品質評価インデックスの構築に向けたシミュレーション解析を行った。


研究の背景

輸血用赤血球をはじめとした血液製剤は臨床医療に不可欠であるが、現在においても血液の代替物(人工血液)は実用化 されておらず、献血による供給に頼らざるを得ない状況である。少子高齢化が進む中で献血者数は減少傾向にあり、 限られた血液資源を有効に活用するためにも、血液の長期保存を実現することは重要な研究課題である。
輸血用に保存された赤血球では、アデノシン3リン酸(ATP) の減少によって細胞寿命が短くなることや、2,3-ビスホスホグリセリン酸(2,3-BPG) の減少によって酸素運搬機能が著しく低下することがわかっている(Nakao et al., Nature, 1962など)。そのため現在に至るまで、赤血球のATP および2,3-BPG 濃度は保存血液の使用期限を決定付ける指標とされてきた(Hamasaki and Yamamoto, Vox Sang., 2000)。 しかし、これらの代謝物質が保存中に減少してしまう本質的な原因のメカニズムは解明されていなかった(Hess, Vox Sang., 2006)。
我々は細胞シミュレーションのアプローチによって、今まで注目されていなかった血液劣化の原因メカニズムの解明を試みた。これまでの研究を通して、血液保存中の代謝物質の減少に直接関与する複数の代謝反応酵素を突き止めた(Nishinoet al., J. Biotechnol., 2009)。さらに、保存液の組成や液性 (pH) が保存中のATPと2,3-BPGの濃度変化に強い影響を及ぼしていることを明らかにできた (Nishinoet al., Submitted)。これらの成果によって「実験的な経験則」に頼って行われてきた従来の血液保存研究に「数理モデル化を通して現象を根本から理解する」という新たな視点をもたらすことができたといえる。

これまでに多数の血液保存法が提案されており、現在においても世界中で複数の異なる血液保存法が利用されているが、申請者の研究グループではRC-MAPモデルとRC-PAGGGMモデルという異なる2種類の血液保存法を模したシミュレーションモデルの構築と解析しか行っていない。その背景には、モデル化に必要な文献データが少ないことや、モデルの検証実験が困難であるという問題があった。しかし最新の研究では、血液の低温保存下で起こる変化を網羅的に観測する試みが急速に進められている(D’Alessandroet al., J. Haematologica., 2012, Geviet al., J. Proteomics, 2012)。実験技術が進歩する中、モデルの構築に必要なデータの蓄積が豊富になる一方で、実験研究者にとっては、大量に得られたデータの解釈が非常に困難であるという状況にもなり得る。また、今後もこの傾向は強まると考えられる。そこで本研究では、大量かつ網羅的に測定された実験データの解釈と、我々がこれまで進めてきたシミュレーションによる血液保存法の開発の両者を支援する目的で、保存血液モデルライブラリの作成と保存血液の品質評価インデックスの選定を目指した。こうした研究の枠組みを新たに構築することで、将来的に網羅的かつ大量に測定されるであろう実験データを有効に活用することができると考える。今年度は、モデルライブラリの作成、および各モデルの安定性の解析と、複数の保存パラメータ変化時における各モデルの代謝動態変動パターンの解析を行った。

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図1. 本研究の流れ

保存赤血球シミュレーションモデルライブラリの構築

1. 複数の保存血液モデルの構築(プロトタイプの作成)

保存条件、保存状態が異なる複数の血液保存法を模倣するシミュレーションモデルを構築した。今回は一般的な輸血に利用される濃厚赤血球液を模した4種類(MAP, SAGM, PAGGSM, PAGGGM)のモデルを構築した。それぞれの特徴をTable 1に示す。
MAP(Mannitol-Adenine-Phosphate)は日本で開発され最も広く用いられている輸血用血液である。SAGM(Saline-Adenine-Glucose-Mannitol)は米国で最も一般的な輸血用血液である。また、PAGGSM(Phosphate-Adenine-Glucose-Guanosine-Saline-Mannitol)はドイツで実用化されている血液保存法である。
これらの3種類に比べてpHが高く設定されているのがPAGGGM(Phosphate-Adenine-Glucose-Guanosine-Gluconate-Mannitol)である。PAGGGMは開発中の血液保存液であるため、実用化はされていないものの、ATP, 2,3-BPGを長期間に渡って高レベルに維持できるという利点がある。

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表1. モデル化の対象とした濃厚赤血球液の特徴


2. モデルの検証

構築したモデルの代謝動態を、解糖系の代謝物質の時系列変化を観察することで確認した。MAP, PAGGGMはキャピラリー電気泳動飛行型質量分析装置(CE-TOFMS)による代謝物質の一斉測定を行った結果と比較した。PAGGSM, SAGMはシミュレーション結果の確認に留めた。
PAGGGMはその他の保存液と比較して、解糖系中流に位置するF1,6-BP, DHAP等が保存初期に著しく蓄積することが分かった。また、解糖系の活性を示す指標であるLACが多く蓄積していることからも、PAGGGMは他の保存法に比べて解糖系の活性が高いことが予測された。
一方、LACの蓄積が一番少ないPAGGSMは、最も解糖系活性が低いと予測できる。

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図2. メタボローム解析によるモデルの検証

解糖系に含まれる物質のメタボローム測定データとシミュレーション予測結果を比較した。
(A) MAP モデル、(B) PAGGGMモデル、(C) SAGMモデル (D) PAGGSMモデル
SAGM, PAGGSMについては測定を行っていないため、
シミュレーション結果のみでの確認に留めた。

モデルライブラリを用いた保存血液モデルの比較解析

構築した4種の異なるモデルを用いて保存赤血球の数理解析を行い、各モデルの動的な特性と安定性を比較した。
各モデルの外部パラメータであるpH, グアノシン、アデニン、酵素活性度に対する感受性解析を行った結果を以下に示す。

1.pHに対する安定性

初期pHの変化に対する各モデルの安定性を確認した。PAGGGMモデルは初期pHが高いことが特徴である。その他の3モデルはすべて初期pHが7.0以下である。各モデルとも、defaultの初期値を基準値として初期pHの変化に対する感受性を確認した
pHに対しては各モデルとも、ATP, 2,3-BPGともに大きな変動を見せることが分かった(図3)。 また、興味深いことに、pHに対する安定性はグアノシンの有無によって2系統に分類できるといえる。
グアノシンが保存液に含まれないMAP, SAGMでは、pHが高い場合に特に保存後期の2,3-BPGレベルが非常に高くなるものの、ATPは減少することが分かった。グアノシンを含むPAGGGM, PAGGSMでは、初期pHが高いことでATP, 2,3-BPG濃度が高く保持されることが分かった。

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図3. pHに対する各モデルの安定性

ATP, 2,3- BPGにおけるpH感受性を確認した。黒実線が各モデルの初期設定値である。
(A) MAP モデル、(B) PAGGGMモデル、(C) SAGMモデル (D) PAGGSMモデル

2.グアノシンに対する安定性

PAGGGM, PAGGSMの2種類の保存液は元来グアノシンを含むが、MAP, SAGMには含まれていなかった。そこで、モデルを改変してMAP, SAGMにもグアノシン代謝機構を実装し、グアノシンに対する影響を観察した。
グアノシンに対しては、各モデルともにATP, 2,3-BPGに対する感受性は低く、安定した結果を見せていた。唯一、PAGGGMモデルではグアノシン量が高いほど2,3-BPGの一時的な蓄積が増える傾向を示していた(図4A)。

3.アデニンに対する安定性

初期値は異なるものの、4種すべてのモデルにおいてアデニンが代謝基質として含まれている。そこで初期アデニン量に対するモデルの感受性を観察した。
アデニンに対しても、各モデルにおけるATP, 2,3-BPGに対する感受性は低かった。ただし、グアノシンの場合と同様に初期pHが高いPAGGGMモデルのみ、ほかのモデルとは異なった変動パターンを示していた(図4B)。

PAGGGM_GUObif.jpg

図4. グアノシン, アデニンに対するPAGGGMモデルの安定性

PAGGGMモデルのATP, 2,3- BPGにおけるグアノシン・アデニン感受性を確認した。
黒実線がモデルの初期設定値(1.4mM)である。
グアノシン・アデニンはそれぞれ0mM, 1.4mM, 2.8mMの3パターンに変化させた
(A)グアノシンに対する安定性。(B)アデニンに対する安定性。

4.酵素活性度に対する安定性

酵素活性度は保存温度に関連が深い保存パラメータである。温度が低いほど活性度が低いとみなせる。この値はMAPモデルの作成時に遺伝的アルゴリズムを用いたパラメータ推定によって決定されており、37℃(生体内)における活性度を100%としたときの比率(%)としてモデル内では示されている。今回は、0.3%、3%(保存赤血球モデルの値)、30%における安定性を確認した。
pHと同様に、酵素活性度に対する各モデルの感受性は非常に高いことが結果から示唆された(図5)。特に活性度が高い(30%)の場合には、すべてのモデルでATP, 2,3-BPGが枯渇してしまった。また、代謝変動に対しては全てのモデルでほぼ同様の影響がみられたが、pHが高いPAGGGMモデルでは活性度が高い30%の時のみ2,3-BPGに対する影響がその他のモデルと異なっていた。

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図5. 酵素活性度に対する各モデルの安定性

ATP, 2,3- BPGにおける酵素活性度に対する感受性を確認した。黒実線が各モデルの初期設定値である。
(A) MAP モデル、(B) PAGGGMモデル、(C) SAGMモデル (D) PAGGSMモデル

複数の保存パラメータの変動に対する代謝動態の変化

比較解析によって、保存液の組成(グアノシン、アデニン)や保存温度(酵素活性度)に対する感受性はpHによる影響を受けることが示唆された。つまり、単一要素が異なる場合と、複数要因が異なる場合において、代謝動態への影響が変化すると考えられる。
そこで、異なる2種類のパラメータを変化させたときの代謝動態への影響を観察する解析を行った。ここではPAGGGMモデルを用いた結果を紹介したい。

1.グアノシン濃度とpHの関係

PAGGGMモデルを用いて、pHが異なる条件下でグアノシン濃度の違いが代謝に与える影響を確認した。
図6の結果から、pHが低い条件下(6.5, 6.95)においてはグアノシン濃度の違いは2,3-BPGには影響を及ぼさないことが示唆された。pHが7.6以上の場合には2,3-BPGへの影響が顕著にみられる。一方、ATPの代謝変動に対する影響は、pHが低い条件下でより大きいことが確認できた。

PAGGGM_pHbif_pH.jpg

図6. pHが異なるときのグアノシン濃度の代謝に対する影響

ATP, 2,3- BPGのグアノシン濃度変化に対する影響を、異なるpH条件下で確認した。
黒実線が各モデルの初期設定値(グアノシン=1.4mM)である。
(A) pH=6.5、(B) pH=6.95、(C) pH=7.6(PAGGGMモデルの初期設定値) (D) pH=7.8

2.グアノシンとアデニンが代謝変動に及ぼす影響

次に、再びPAGGGMモデルを用いて、アデニンとグアノシンの初期濃度(保存液の組成濃度)の違いが代謝に与える影響を確認した。
ここでは、従来の指標であるATPと2,3-BPGに加えて、代謝の副産物であるヒポキサンチン(HX)への影響も確認した。ヒポキサンチンは生体内で尿酸や酸化ストレスの発生源となることが知られているため、血液保存中に濃度が高まることは好ましくないとされている。
図7から、アデニンとグアノシンが各代謝指標に与える影響は、その代謝指標によって大幅に異なること、また、保存日数によっても異なることが示唆された。以上のことから、代謝動態を観察する際に用いられる複数の指標に対しては、保存パラメータの種類によってその影響が異なってくることが考えられる。

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図7. グアノシンとアデニンが代謝へ及ぼす影響

アデニンとグアノシンが与えるATP, 2,3- BPG, HXへの影響を、異なる保存日数の条件下で確認した。

まとめと研究の展開

今年度はモデルライブラリの構築と各モデルの特性を確認する解析を行った。モデルライブラリの構築および、それぞれのモデルの特性を把握することができた。また、構築したモデルライブラリを用いたシミュレーション解析を通して、1つの保存要素のみが変動する場合と複数の保存パラメータが変動する場合では、代謝動態における影響が大幅に異なることが示唆された。つまり、結論として、複数の保存要素に対する評価を行う環境を提供する必要があると考えられる。今回の結果を踏まえて、保存赤血球モデルの評価表の完成を目指したい。
また、実験科学者が利用しやすい環境を提供するためにも、評価指標の選定を行うときにはより臨床に近い要素を含める必要があると考えている。現在はATP, 2,3-BPGに代表される代謝物質を評価の指標に据えているが、赤血球膜の強度や酸素運搬能といった、より具体的な要素を盛り込むことが重要になってくるだろう。以上のことから、物理化学的な要素を含んだモデルへの拡張も視野にいれて研究を進めていきたい。

執筆論文

Nishino, T., Yachie-Kinoshita, A., Hirayama, A., Soga, T., Suematsu, M. and Tomita, M
"Dynamic simulation and metabolome analysis of long-term erythrocyte storage in adenine?guanosine solution"
Submitted