2013年度森泰吉郎記念研究振興基金 成果報告書
中国蘇州市の太湖沿岸地域における農業面源対策の「住民参加」の導入と課題
―日本の琵琶湖との比較をもとに―
政策・メディア研究科 修士二年
栗媛
81225759
1.研究背景
太湖は、中国第三の淡水湖であり、表面積が2250k㎡、平均水深が1.94m。長江デルタ経済圏に内包された中国で最も経済発展の著しい地域に位置している(図1を参照)。沿岸は人口が密集し、蘇州などの重要な水道水源である。しかしながら、水落(2009)によると20世紀80年代後半から太湖が汚濁をしており、富栄養化の進行によるアオコの異常増殖が頻発しているということである。水環境管理がもう一刻の猶予も許されない任務だと思われる。太湖は、蘇州市の西側に位置し、約70%の水域が蘇州の管轄に属している。蘇州市の水環境保全の責務は重大だと言える。
水汚染は一般的に工業点源汚染と農業汚染、及び住民の生活排水汚染が主な原因である。2010年に発表された「第一回全国汚染源調査公報」によると、現在の中国おいて農業面源汚染が水質汚染の最も深刻な原因の一つである。太湖流域の水質汚 染物質の排出源として、大きな割合を占める農業面源の存在は無視できないことである(グラフ1を参照)。山田(2011)は「面源汚染は重要な汚染源であるにも関わらず、点源汚染と比較すると一般的に対が遅れている」としている。太湖流域の気候は温暖かつ湿潤である。さらに、 太湖は水深が浅く、栄養塩類が湖底に蓄積しやすい。そのため、藻類が大量発生しやすいと言える。2000年以降、農業・畜産による汚染に対しては沿岸地域での化学肥料や農薬の使用制限、畜産の禁止と各種の規制が行われてきた。また、補助金政策を含めた環境保全型農業の推進、家畜排泄物処理施設の設置とリサイクルの推進、生活系による汚染についてはゴミ処理と資源循環利用の推進等の取り組みが行われていた。しかしながら、2007年に藍藻類の異常増殖により、無錫市において、上水供給停止などの障害が起きた。無錫市の例を戒めとし、蘇州市も水質管理を強化していかなければならない。
琵琶湖は、面積670k㎡ 、貯水量275億㎥、日本の最大の湖であり、滋賀県および下流府県の1400万人の生活と産業活動を支える基盤として、大きな役割を果たしている(表1を参照)。昭和52(1977)年に淡水赤潮が大発生し、それを契機として様々な水質保全対策を推進してきた。富栄養化、農業汚染、生活排水、工場排水は琵琶湖の水質問題の重要な原因である。太湖流域の水環境が職免する課題は日本がこれまで直面してきた課題と重なるところが多いことから、琵琶湖の経験を学ぶのは、太湖水環境政策の改善の大変参考になると思われる(表2を参照)。
表1 太湖と琵琶湖の概況の比較
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面積(k㎡) |
湖岸線の長さ(㎞) |
平均水深(m) |
主な利水目的 |
供水人口(万人) |
太湖 |
2250 |
405 |
1.9 |
水道水、農業用水、漁業、水運、観光 |
2000 |
琵琶湖 |
670 |
235 |
41 |
水道水、漁業、観光、農業用水 |
1400 |
表2 琵琶湖の水環境の歩み
時期 |
水環境の状況 |
対策 |
1940年代 |
14の内湖の消失・水質悪化や外来魚繁殖 |
― |
1950年代 |
生活排水による水質の急激な変化 |
― |
1960年代 |
Ø 除草剤による漁業被害 Ø 杉・ひのき植林、アンチモン公害による富栄養化の兆しが見られた |
― |
1970年代 |
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Ø 石鹸運動 Ø 琵琶湖総合開発の開始 Ø 「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」の制定(1979) |
1980年代 |
富栄養化が進行し、環境問題が多様化・複雑化になってきた |
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1990年代 |
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石鹸運動が水澄まし協議会や川づくり会議が設立された |
2000年代 |
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マザーレイク21計画策定 |
2. 研究目的
本研究では、2007年に太湖のアオコ大発生によって上水供給危機が起こった無錫市の例を教訓として、蘇州市の水環境保全にどのような示唆を与えるのかについて検討した上で、今迄蘇州市の太湖沿岸における展開している水環境政策を評価するために、農業面源汚染の現状を調べる。沿岸住民の意識や行動を変え、農業面源対策の実効性を高めるために、公衆参加の重要性を明らかにする。日本では環境保全があり、地域協働型の住民参加が行われて成功している。その経験を太湖の水環境保全に生かす可能性を検討していく。
3.現状考察と分析
3.1 太湖農業面源汚染問題の要因
1990年以降の太湖沿岸における農産物作付面積および構成が変化した。収益の低い糧食から、経済性の高い野菜、果物へ作付けがシフトしたことは明らかである。
次に、同時期の太湖沿岸における畜産の発展も著しい。伝統的な家畜である豚は自給的性格が強く、増加が比較的緩やかとはいえ約20万トン増加している。
しかしながら、大多数を占める細分化された小規模経営が継続されることにより、農家は限られた土地でより多くの生産性を上げるため、肥料や農薬を多投せざるを得なくなる。肥料や農薬市場の自由化後は、食料の安定供給を目的としてこれらの農業生産資材価格は政府の支持によって低く抑えられてきた。
また、地域によっては高温多湿な病虫害の発生しやすい気候という要因も考えられる。そのため、農薬・化学肥料の投入量を増やす。
さらに、畜産業の発展の要因も無視できない。小規模経営から排出される家畜排せつ物処理施設の設置および堆肥化など循環利用が未整備である。
3.2 湖沼における水環境保全計画
1996年から中国では国家環境保護第九次五カ年計画において、重点的な水環境改善が必要な湖沼として太湖は指定された。1996〜2000年に九五計画が実施され、水環境改善の取組は正式的に始めた。十五計画が2001年から2005年までの五年間で実施された。2007年6月に起こったアオコ大発生事件を経て2008年から太湖流域水環境総合治理総体方案が施行されてきた。
表3 水環境保全計画の事業内容の概要
九五計画 |
十五計画 |
総体方案 |
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工業排水 |
1998年までの年限を限った閉鎖、営業停止、合併、業種転換、移転、期限付改善。 湖岸の旅館・ホテルの排出基準達成。 湖内における動力船の制限及び電動船の使用。 |
排出基準の遵守を厳格にし、2002年までの年限を限った閉鎖、合併、業種転換、移転。 すべての企業に対するクリーン生産審査を実施。 大手企業に対する窒素・リン総量規制の導入。 湖内における動力船の制限及び電動船の使用。 |
排出基準の遵守を厳格にし、未達成事業所の操業停止、小規模な特定の事業場の廃止。 重点監視事業所に対するオンライン測定装置の設置及び汚染排出許可制度実施状況の監督と審査の強化。 湖内における動力船の非汚染化及び重点船舶の動態監視。 |
飲用水の安全性確保 |
飲用水源地の保護。 アオコ処理船による藻類除去。 |
飲用水源池地の保護 |
飲用水源池地の保護及び代替水源地の確保。 |
九五計画 |
十五計画 |
総体方案 |
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下水処理/都市ごみ |
下水道普及率の増加と新規に建設予定の下水処理場に高度処理の義務付け。 有リン洗剤使用の制限。 |
下水道普及率70%及び新規に建設予定の下水処理場に高度処理の義務付け。 処理場建設に対応した下水管路整備の推進。 小都市における下水道整備の推進及び農村部での対策を検討。 有リン洗剤使用の制限。 都市ごみ処理場建設の推進。 |
2012年の都市下水道普及率目標80%、鎮の普及率60%及び既存の下水処理場に高度処理の義務付けと太湖への直接放流の禁止。 処理場建設に対応した分流式下水道管理整備の推進。 農村部での対策の推進。 有リン洗剤の禁止。 都市下水処理場における汚泥無害化処理の推進。 2012年の都市ごみ処理率目標75%。 |
農業面源 |
耕作方法の改変、合理定期な施肥、排水灌漑施設の改善。 畜産汚染総合対策。 生簀養殖制限、しじみ漁船などの制限。 |
化学肥料の使用制限と有機肥料の利用推進及び太湖周囲5㎞の範囲内での化学肥料と農薬の使用禁止。 太湖周辺地区での畜産の禁止と移転及び大規模畜産場への規制強化。 養殖の制限。 |
都市と農村のごみ処理の一体化及び農村における資源循環利用の推進。 ゴミ埋め立て場の管理強化と浸出防止策の推進。 作付の適正化を図り、施肥管理により化学肥料を削減。 畜産場における排水処理とメタン発酵による資源リサイクルの推進。 水産養殖の制限及び環境低負荷型養殖技術普及。 |
太湖流域水環境総合治理総体方案以外、2007年水危機以降、太湖流域において、中央政府から地方政府まで様々な水環境政策が行われた。(表4を参照)
表4 2007年以降の主な太湖流域水環境政策
国 |
江蘇省 |
無錫市 |
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2007年 |
太湖水汚染防治条例(2007年9月27日改正、2008年6月5日施行) |
無錫市太湖水汚染防治工作計画(2007~2010) 無錫市太湖藍藻防治応急予案(5月21日) 無錫市飲用水源保護法(6月5日施行) |
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2008年 |
太湖水汚染防治法改正 (2008年2月28日改正、6月1日施行) 太湖流域水環境総合治理総体方案(2008年4月) |
太湖主要入湖河川における双河長制の実施(6月13日) |
無錫太湖保護区の決定(4月17日) 水環境保護条例(12月1日施行) |
2009年 |
太湖流域水環境総合治理実施方案(2月25日) |
無錫市太湖水汚染防治委員会弁公室職能配置内設機構・人員編制規定の通知(2月14日) 無錫市太湖水汚染防治委員会工作規則の通知(4月1日) |
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2011年 |
太湖流域管理条例 (9月) |
十二五太湖水環境治理専項規画 (11月25日) |
3.3 蘇州市における政策改革
2007年水危機の発生地であった無錫市では、新たな取組が江蘇省全体に広がり、さらには全国に普及するようになった制度が「河長制」である。重点水質規制断面について、市、各県、各区の主要幹部が河長を担当し、その河川の総合対策の責任を持ち、河川や湖沼の水環境状況を監督している。
また、江蘇省太湖水汚染防治条例を改正した後、無錫市と同じ、蘇州市も太湖保護区を規定した。一級保護区として、太湖水面及び湖岸5kmの地域と太湖に流入する河川を上流に10km遡った両岸1km以内を指定した。二級保護区は太湖流入主要河川の河口から10〜50kmの両岸1kmの範囲である。一級保護区では、各種の建設行為を制限し、工業や環境保護基準に符合しない施設を期限内に移転させた。また、耕地や家畜・水産養殖場を撤去し、農薬、化学肥料等の使用を制限する生態農業を実施するとした。
これらの取組が農家にどれほど浸透しているかまだ不明である。
3.4 琵琶湖の事例
琵琶湖で問題となっていた水質の保全をはじめとする環境保全、治水、利水の各分野でのさまざまな地域開発事業を併せて進める琵琶湖総合開発が昭和47(1972)年から25年間にわたり推進された。「琵琶湖淀川のこれからの流域管理に向けて」(2011)によると、琵琶湖総合開発は、下流における新たな利水とそれによる経済発展、そして琵琶湖周辺における湖岸堤や流入河川改修による治水、上水道、工業用水道、農業用用水・排水施設、農業集落排水処理施設などによる環境保全に大きな成果を上げ、琵琶湖周辺の地域振興にも大きく寄与したということである。こうした成果を踏まえて、琵琶湖と人とが共生するために、琵琶湖総合保全整備計画が策定されている。そして、下水道、農業集落排水処理施設、合併浄化槽による生活排水処理100%を目指した汚濁負荷削減対策、農業用水の反復利用や循環灌漑施設などによる農地からの汚濁負荷削減対策、植生等による河川における浄化対策、農業者による環境負荷が少ない「環境こだわり農業」、農業排水路を活用し琵琶湖と田圃をつないで魚が産卵できるようにする「魚のゆりかご水田プロジェクト」など、さまざまな取組が行われている。
二者を比較すると、太湖における水環境保全プロジェクトが少なく、住民が環境保全活動に参加する機会も不足だと分かった。中国では住民参加できる環境保全システムがまだまだ不整備だと思われる。
4.展望
中国で現状の水環境保全の対策は飲料水の安全確保が中心として、その内訳は都市排水対策にあり、農業系は対策が進められていないということを証明するために、太湖水利委員会、環境保護局、発展改革委員会や農林局などの資料を引用し、整理する。
さらに、農業系の汚濁負荷対策の実態とその解決策について、先行研究をレビューし、まとめていきたい。
最後、農民の行動を変えるアイディアは何か(環境保全型農業円卓会議など)について、検討していく。霞ヶ浦の地域恊働型の住民参加の事例を挙げ、その経験を太湖の水環境保全に生かす可能性を分析する。
参考文献
水落元之(2009)「太湖流域の水汚染問題の現状」『中国の水汚染問題解決に向けた流域ガバナンスの構築-太湖流域におけるコミュ二ティ円卓会議の実験』調査研究報告書第1章,pp.1
水落元之(2010)「太湖流域の水環境保全計画の展開と課題」『中国の水環境保全とガバナンス−太湖流域における制度構築に向けて—』第1章, pp.58-61
山田七絵(2011)「中国における農村面源汚染問題の現状と対策―長江デルタを中心に―」『中国における流域の環境保全・再生に向けたガバナンス―太湖流域へのアプローチ』調査研究報告書第2章,pp.31
琵琶湖淀川の流域管理に関する検討委員会(2011)「琵琶湖淀川のこれからの流域管理に向けて」提言pp.9
日本水環境学会(2009)『日本の水環境行政』, ぎょうせい
日本水環境学会(2000)『日本の水環境・近畿編』, 技報堂出版
陳菁 銭新 中尾正義(2008)『社会開発と水資源水環境』, 海河大学出版社
黄漪平(2001) 『太湖水環境及其汚染控制』, 北京科学出版社
ウェブサイド
無錫市発展改革委員会 (http://dpc.chinawuxi.gov.cn/)
蘇州市呉中区公式ページ(http://www.szwz.gov.cn/zwgk/showpage.asp?id=2825)
中国国務院法制弁公室(http://www.chinalaw.gov.cn/article/xwzx/fzxw/201109/20110900349292.shtml)