2013年度森泰吉郎記念研究振興基金「研究育成費」成果報告書

政策・メディア研究科 修士課程2年 兼定愛

 

 

1.研究課題名

「イスラーム教徒の「憂い」と「悲しみ」とその対処方法」

 

2.研究概要

本研究では、世界的ベストセラー『ラー・タフザン(憂いてはならない)』の分析と考察を通じて、同書が現代のムスリムたちに対して、「フズン(≒憂い)」やその乗り越え方について何を提示しているのかを明らかにする。それを通して、イスラームの教えにおいて、「フズン(≒憂い)」はどのように扱われており、また、アッラーからの「憂いてはならない」という命令は具体的に何を意味するのかについて明らかにする。

また、同書に示されている「信仰と憂いとの関係」に着目し、「フズン(≒憂い)」を「ヤアス(≒絶望)」に繋げず喜びに転換し得る過程を、関連語の背景への理解を深めつつ、提示する。

また、そのような文献調査に基づくイスラーム教徒への質的調査を通じて、イスラーム教徒がどのように「フズン(≒憂い)」や「ヤアス(≒絶望)」という概念を捉え、それらに対処しているのかを明らかにする。

 

3.活動内容

3.1.文献調査

サウジアラビヤのオビーカーン社から2002年に発行された『ラー・タフザン(憂いてはならない)』の第23版(2009年発行)を中心に扱った。同書の全体的な内容や、同書に202回記載されている「フズン(≒憂い)」、37回記載されている「ヤアス(≒絶望)」という言葉のイスラーム的概念について正確に理解するためには、イスラームの聖典『クルアーン』や預言者ムハンマドの言行録である『ハディース』を適宜参照した。また、同書『ラー・タフザン(憂いてはならない)』に登場するアラブの歴史的人物や、クルアーンの聖句の時代背景について知るために、文学博士、言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者と言われる井筒俊彦の著書を始め、関連する日本語文献を複数参照した。

また、憂いや絶望、希望について考察を行うために、心理学、精神分析学、社会学、文学、哲学など、分野横断的な文献にあたり、日本語の場合、一般的にどのような文脈で、どのような意味において、それらの言葉が用いられ得るのかについて調査した。

 

3.2.インタビュー調査

同書について考察する際の参考とするために、アラビヤ語母語話者のムスリムに対して質問紙によるアンケート調査を行った。調査対象年齢については著者アル=カルニーのフェイスブックを参照し、ファンページ登録者数が最多である2030代に設定した。調査で用いた質問紙の配布と回収には、メール、もしくはFacebookの個人メッセージ機能を用いた。また、該当する知人がいれば質問紙を配付するよう頼んだ。使用言語をアラビヤ語とした理由は、クルアーンが降された言語であるため、イスラームに関する事柄を直接的に語ることが可能な手段であると考えられるからである。なお調査対象は、クルアーンの原典を母国語で読むことができ、イスラームの基礎知識を習得しているであろう、アラブのムスリムたちである。

まずは「フズン(≒憂い)」と「ヤアス(≒絶望)」、「アマル(≒希望)」という各概念自体と、それらが自身の中でイスラームとどのように関係していると思うかについて質問した。後半では『憂いてはならない』を読んだ契機や、勧められた経験の有無、感想などを尋ねた。結果的に男性16名、女性6名の、計22名からの回答を得た。

詳細な調査結果は、201419日に提出した、修士論文に記載した通りである。

 

4.今後の展望

森泰吉郎記念研究振興基金からの助成による本調査で明らかにした結果を用いて、「『ラー・タフザン(悲しんではならない)』における「悲しみ(hzn)」を巡る考察」というタイトルで修士論文をまとめた。その上で、今後の課題が明らかになった。

まず、中心的に扱った文献の翻訳は現在104ページ分に留まっているが、引き続き作業を続け、遅くとも年内に全篇の翻訳を完成させることを目指す。これにより、イスラームについて正しい情報を獲得しにくい日本の人々に向けても、信仰を守り、希望を失わず生きる強い意志を持つムスリムたちの思考形式を紹介することができ、彼らの言動の背景にある心理や叡智への理解を助けられる。また、悲惨なニュースが飛び交う今もなお、シリアを始め、アラブの諸地域において、希望を捨てず生きているであろうムスリムたちのことを、日本の人々に思い出させるという効果も期待できるからである。

また、今回行ったアンケート調査の反省を活かし、より大規模に、国籍の多様性もさらに広げ、厳選した問いによるアンケート調査を実施したい。今回のアンケート調査の回答者は8割ほどが学生であったが、今後、イスラーム世界の宗教指導者や学者らにも、同書についての意見を伺いたい。また、同書においては、精神科医も、薬よりも同書を治療に用いたと述べている旨が記載されていたが、世間には、イスラームの教義を、西洋の心理学と折り合いのつかないものとして否定的に扱う研究も一般的に存在する。その点に関して、彼らアラブのムスリムの精神科医はどのような見解を示すのか、実際の声を集めてみることも有意義である。さらに、著者であるアル=カルニーにもインタビュー調査を行うべく、現在様々な可能性を検討している。

5月下旬にはSFCの後記博士課程の出願を行う予定であり、そのための研究計画書を現在作成中である。それをもって3月前半はモロッコ、後半はヨルダンに訪問し、イスラームの知識を深めるためには避けられないアラビヤ語力の強化とともに、博士課程の間に行う研究として現実的な計画の洗練を行う。現在、博士論文の題材として考えているのは、第一に、『ラー・タフザン(悲しんではならない)』を中心とした研究の継続である。1,000万部の売り上げは異常な社会現象とさえ呼べるであろう。同書の内容の分析と考察は修士課程での調査にて行うことができたが、同書が社会に及ぼした影響については十分に提示できなかったため、それに特化した研究を行いたい。第二の構想は、近代以降の多くの社会において、信仰が切り捨てたと言われるが、これまでの調査によって、信仰が個々人の心を支えている様子が垣間見られた。それを踏まえ、近代になって信仰が切り捨てられたのはなぜか、また、人々が社会や個々の人生から信仰を切り捨てることによって現在生じている弊害とはなにか、それについて、研究することである。3月中にこれらの問題意識を出来る限り解消でき、且つ、3年間で博士号を取得するために現実的な計画を立てることが課題である。

 

5.謝辞

最後になりましたが、本調査で多くの文献を入手し幅広い知識習得を最大限に試みながら研究を進められたのは、基金創設者である森泰吉郎様や、基金を運用してくださいました慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス研究支援センターの皆様、その他関係者の皆様のおかげです。心から御礼を申し上げます。