2015年度 森泰吉郎記念研究振興基金 研究者育成費 報告書

パレスチナ問題における一国家案の構築に関する考察

学籍番号:81524831

政策・メディア研究科 修士課程1年(GR

ハディ ハーニ

1     はじめに

今回の助成金を活用し、研究内容の根幹部分を成すフィールドワークを実施することができた。フィールドワークは20158月後半から20162月後半のおよそ半年間に渡って実行した。当初のフィールドワーク予定地はパレスチナ自治区であったが、イスラエル/ヨルダン国境にて5年間の入国拒否を言い渡されてしまったことで、隣国ヨルダンでの研究に切り替えた(そのため当初の研究計画からは少々異なっていることを了承いただきたい)。

 

2     研究概要

和平プロセスの停滞により、「二国家解決」の実現が疑問視されている現在のパレスチナ問題において、知識人レベルでは「一国家解決」の可能性が指摘され始めてきた。しかしながら、一国家案は、代案としての現実性を未だ備えておらず、一般民衆のレベルには浸透していない。そこで本研究では、ヨルダン・アンマーンでの聞き取り調査やアラビヤ語による先行文献の分析を通じて、現状の一国家論が抱える課題を明らかにしつつ、より実現可能な一国家案が構築されるための考察を行う。

 

2.1      目的と課題

本年度における研究の目的と課題は大きく分けて以下の3種類である。

第一の目的は、先行研究の分析である。今回の調査で主に取り扱った文献は以下である。

 

・إعداد وتحرير: هاني أحمد فارس، "حل الدولة الواحدة للصراع العربي - الإسرائيلي: بلد واحد لكل مواطنيه"، 2012، مركز الدراسات الوحدة العربية، عدد الصفحات: 496.

(編著:ハーニ・アフマド・ファーリス,「アラブ-イスラエル紛争における一国家解決―すべての市民に、ひとつの国を―」, 2012, 統一アラブ研究センター,496.

 

本書の内容は、世界各地(特に英米)の著名な学者や活動家たちによる一国家論に関する研究論文をまとめたものである。筆者の研究にとっては避けることのできない重要な先行研究でありつつ、日本語による一国家論に関する直接の先行研究においては本書が発行される前のものが最新であり、そのため本書を講読しその内容を踏まえることが、修士課程における研究の中でも重要であると言える。本調査では個人的にアラビヤ語から日本語への翻訳作業を行い、並行してアラビヤ語個別教師とのブラッシュアップを通じることで理解の精度を高める。そうしたことによって、現地での研究に不可欠なアラビヤ語の能力も高めることもひとつの目標である。

第二の目的は、イスラエルとパレスチナを中心とした現地報道機関やジャーナルにおける最新の議論を分析することである。そのために、ヨルダン・アンマーンを拠点とするパレスチナ問題専門のジャーナリズム研究機関「ダール・アル=ジャリール」が所蔵する情報アーカイブから対象となる年度の情報(新聞記事、論説など)を抽出する。またそうした情報から、現在一国家議論が提唱されている背景、あるいは提唱者自身の背景や、議論の展開を分析する。並行して、一国家案を批判する議論や、世論調査の結果なども参照しながら、民衆の観点を明らかにする。これらをもとに、近年の一国家議論に対する客観的な整理・分析を行うための基礎とすることが目的である。

第三の目的は、アンマーンにおけるパレスチナ系市民が二国家案、あるいは一国家案について、どちら(あるいはそれ以外の何か)を支持しているか、またその理由は何かということを、定性的な聞き取り調査によって明らかにすることである。課題としては問題の当事者が抱える現状と乖離しない形の一国家案を構築するために、彼らの意見がどのように多様化しているかという実態を明らかにすることである。聞き取り調査では、問題解決に対する個人的な理念や相互認識について、またそれに至った背景としての様々な周辺状況(生活状況や、信仰の役割や実際の宗教的生活の実態、地理的背景など)を明らかにする。内容の方針は定性的な聞き込み調査であり、既存の定量的な世論調査などとの差別化を図る。

 

2.2      手法

l  文献調査

以下の文献を取り扱った。アラビヤ語で購読し、日本語に翻訳することで、内容の理解を深めることを狙った。

إعداد وتحرير: هاني أحمد فارس، "حل الدولة الواحدة للصراع العربي - الإسرائيلي: بلد واحد لكل مواطنيه"، 2012، مركز الدراسات الوحدة العربية، عدد الصفحات: 496.

(編著:ハーニ・アフマド・ファーリス,「アラブ-イスラエル紛争における一国家解決―すべての市民に、ひとつの国を―」, 2012, 統一アラブ研究センター,496.

نادية سعد الدين "الحركات الدينية السياسية ومستقبل الصراع العربي-الإسرائيلي"، 2012، الدار العربية للعلوم، عدد الصفحات: 560.

・(ナーディヤ・サアド・アッ=ディーン,「宗教政治運動とアラブ-イスラエル紛争の将来」, 2012, アラブ科学館, 560.

 

l  資料調査

ヨルダン・アンマーンを拠点とするパレスチナ問題専門のジャーナリズム研究機関「ダール・アル=ジャリール」所蔵の情報アーカイブを利用して、パレスチナ問題における一国家解決案に関する最新の議論・批判・世論調査などの情報を収集・講読・分析を行う。対象とする領域は、先行研究が存在していないおよそ2010年以降に絞り込む。言語はアラビヤ語、英語、ヘブライ語を用いる。

 

l  聞き取り調査

アンマーンのヨルダン大学卒業生であり、大学におけるパレスチナ人学生連合のリーダーを務めた経験があるアフマド・シャーヒーン氏にご協力いただき、普段はパレスチナに在住しているパレスチナ系市民への聞き取り調査をアンマーンで敢行した。しかしながらこの聞き取り調査に関しては、フィールドワーク先がやむを得ず変更になったことの影響で、当初予定していたフォーマルなインタビュー調査とは異なり、比較的オープンな内容となった。

 

3     フィールドワーク概要

3.1      期間:2015821日〜2016222

3.2      使用言語:アラビヤ語、英語、ヘブライ語

3.3      日程:

830日:羽田空港発⇒カタール・ドーハ経由⇒ヨルダン・アンマーンに到着。

824日:ヨルダン・イスラエル国境にて越境を試みるも入国拒否(5年間)のためアンマーンに一時帰還。

9月上旬〜2月:調査の予定を変更し、アンマーンでの調査内容を計画、アラビヤ語の個別教師を紹介していただき契約、授業開始(週3回・各2時間)。文献の翻訳作業を開始。

11月上旬〜2月:ダール・アル=ジャリールでの資料検索、講読作業。

 

*その他、聞き取り調査の対象となることを承諾してくださった方とは、自宅や市内の飲食店などで話を伺った。

 

3.4      調査の成果と課題

l  文献調査

対象とした書籍は、上記にも挙げた、ハーニ・アフマド・ファーリス変『イスラエル/パレスチナ問題における一国家解決―〜全市民のための単一国家〜』(アラブ統一研究センター、2012年、全496頁)である。

本書の発行は、200911月にアメリカ・マサチューセッツ州ボストンで開催された一国家論に関する会議の開催に端を発して計画され、会議に参加した研究者・活動家・ジャーナリストらの内21人による研究を収録している。内容は多岐にわたり、法学・宗教・地理・倫理など様々な観点を含んでいる。一国家解決に関する研究はそもそも数が少ないこともあり、筆者の研究にとっては前提とすべき内容で、そのため読解は必須のものであると判断した。また本書は現状の一国家案の理論部分を構成する最先端の物でもある。まずはアラビヤ語を通じて本書の内容を理解すること、次に、その内容を論文中に位置づけられるよう、体系的に整理しなおすことを目標とした。なお読解作業においては、自身による翻訳作業のほか、上述の通り個別授業時にも文法事項の解説や内容の解説を行っていただき、理解の精度を高めた。

パレスチナ問題の解決策について筆者が度々言及してきたことは、一国家解決が単なる「二国家解決が頓挫したことによる妥協案」的な性格を強く持っていた、ということであった。しかし本書を読んで、「妥協案ではなく、むしろ積極的に追及すべき理想案」としての気概と、さらなる具体性を備えたものになっていることを読み取った。

しかしながら、二国家案と同様に、未だに一国家案の前に残された問題も存在している。中でもおそらく最大の問題は、イスラエル社会におけるユダヤ・シオニズム的排他性の問題であろう。イスラエル社会は「ユダヤ教の伝統」という視点から見れば、非常に世俗化が進行していると言えるものの、実際にはイデオロギー的なバイアスが社会に強く根付いていると言える状況がある。そうした状況の最たるものとして、イスラエルを「ユダヤ的国家」として維持することに対する執着がある。それはつまり、ユダヤ人が人口的にマジョリティであることを維持することとほぼ同義である。ホロコーストによるトラウマからの影響や、70年代以降次第に変化してきた拡張シオニズム的な理想への傾倒からか、イスラエルがユダヤ性を失うことが、(世俗化が進んだといえど)多くのイスラエル人にとっての最大の危惧となっているのである。

パレスチナとイスラエルで出生率を単純に比較すると、パレスチナ人のほうが高いことがわかる。それを基にすると、おそらくこの5年内には歴史的パレスチナ内(現在のイスラエル領とヨルダン川西岸地区、ガザ地区を合計した地域)においてパレスチナ人がマジョリティとなる計算になる。そうなった場合に、ユダヤ系イスラエル人に何が起こるのかということを、イスラエル人は危惧しているのである。入植地の拡大問題や、分離壁の問題はこうした危惧を如実に反映したものでもあり、最も顕著な例は、2008年や2014年に起こった対ガザ戦争であるといえよう。ガザを徹底的に封鎖し、内部の民衆の生活を破壊した(ポリティサイド:政治的虐殺とも呼ばれる)ことで一部は暴徒と化し、イスラエルに向けてロケット攻撃を敢行すると、イスラエルはこれに対し「自己防衛」として徹底的に攻撃を行う。イスラエルはこのようなことを定期的に繰り返しており、その中で常に自身の行為(戦争犯罪を含む)を正当化し、一部を除いて大部分の民衆はそれに疑問を抱くことはなかったどころか、イスラエル政策のプロパガンダ政策も相まって、反対に「悪魔」として描かれる「イスラーム過激派」に対する憎悪を募らせ、問題は一層複雑化してきているのだ。なおこうした定期的なイスラエルの戦争行為は、一部の批判者から「芝刈り」とも呼ばれるまでになっている。本書から読み取ったイスラエル社会におけるイデオロギー的なレベルでの問題の中でも、こうした点は最も重要なものであると言える。

しかしながら、ネガティブな要素だけが議論されているわけでもない。本書では一国家解決を実行する際に発生しうる問題についてもいくつか議論が行われている。例えばパレスチナ人が元々居住していた土地に帰還し、財産を回復する、あるいはそれに相応の補償を受けることの実行可能性・手法といった問題がある。また、パレスチナ難民を収容する能力がパレスチナにあるか、ということに関する分析も行われている。これまでの一国家案に関する議論においては、ここまでの具体性を備えてはいなかったが、本書やその背景にある学者たち・活動家たちの動きによって、一国家議論が非常に前進していることを読み取った。こうした前進は、将来的に多くの当事者からの指示を得るきっかけとなりうるものである。

しかしながら、未だに完全とは言えない視点が存在している。それは宗教的(特にイスラーム的)視点である。ユダヤ教的な観点からの考察は思いのほか多く存在しているものの、特にイスラームに関する観点はあまり多いとは言えない。歴史的にはイスラーム主義者たちは問題の解決を阻害する要因とさえみなされてきたが、実際にはイスラームの原典のレベルから考え直せば、少し違う状況も見えてくる。イスラームが悪用されれば、問題の障害となり、紛争を複雑化させる要因となり得る可能性を孕んでいることも否定することはできないが、反対に、共存を促進し、地縁や血縁、宗教を超えたガバナンスを促進・実現する論理も含んでいるのである。こうした視点は未だに積極的には取り扱われていないということを発見した。だが、民衆たちのレベル、特にパレスチナ社会においては、イスラエル社会ほどの世俗化は進んでおらず、未だに民衆の論理に大きな影響を与えている。学術レベルでは思いのほか政教分離の原則に基づいた議論が多くなされているが、実際にそれによって統治を受ける民衆の論理には宗教的価値観が根深い。こうした状況を考慮すると、今後は、理論レベルでは(ほぼ)政治的問題としてのみみなされているパレスチナ問題に対して、いかにして積極的にイスラーム的視点を組み込んでいくか、ということが課題になると感じた。

 

l  資料調査

ダール・アル=ジャリールが所蔵する資料は主に新聞記事・ジャーナルなどであり、それらに関するセンター独自の分析レポートや論説などもまとめて収録している。またイスラエル系メディアは当然ヘブライ語によるものなので、センターにいるヘブライ語翻訳者たちが毎日最新の情報を翻訳し、テーマごとに管理している。なお、情報は紙媒体である。

インターネット上で検索をかけるなどのことができないため、直接手に取り、タイトルや序文などから必要な情報かどうかを判断した。また、資料検索を手伝っていただいた羽デル先生には事前に自身の関心のあるテーマを伝えてあったため、同氏が勧める情報についても積極的に取り入れた。

絞り込んだテーマは主に、将来の国家像に関する意見・批判・世論調査・論説などであった。アラビヤ語の記事はそのまま保存されており、ヘブライ語についてはアラビヤ語に翻訳されて収録されているため、追ってアラビヤ語での購読を行った(レポート提出現在も作業中である)。

新聞やジャーナルによる情報は、学術論文などとは少々異なって、(右派・左派といった位置づけにかかわらず)比較的民衆的・実地的な視点に近い論理を備えていると感じる。またこれらの情報は政治的・宗教的・文化的な重要人物らの意見を取り上げたりすることが多いため、有益な情報も多いに含まれていると考える。さらに、様々な国家像が議論されているパレスチナ問題であるが、それぞれへの批判的な議論が多くみられることも、互いの問題点を明らかにするうえでの重要な視点であるといえる。加えて、時折実施されている世論調査は、そうした将来的意見に対する数量的な裏付けを獲得することもできる。筆者の研究は一国家論に集中するものではあるが、二国家支持者やその他の国家像支持者などの意見や批判などを採り入れつつ俯瞰的に分析することで、最終的には一国家論の議論に多いに役立てることができると感じる。

 

l  聞き取り調査

今回の聞き取り調査では、調査地が変更になったことの影響で、当初計画していた内容での調査はできなかった。また最終的に行った内容についても、内容を決定して行うタイプの聞き取りではなく、人物に合わせて調査の途中で設計を変えていく方針で行った。

結果としては、まずパレスチナ問題に関するインタビュー調査は非常に難易度が高いことを認識した。というのも、筆者の研究においてはパレスチナ問題の解決策を中心的に取り扱うものであり、聞き取り調査でも必然的にそうしたワードを用いて行うことになる。しかしながら実際に行ってみると、「そもそも土地を盗まれているという経緯があるのに、ユダヤ人と国を分割したり、共存したりなどという解決は存在しえない」「これは政治の問題ではなく、イスラームの問題なのであり、ユダヤ人があの土地から一人残らず出ていくまで戦いが終わることはない」といった意見も散見され、調査中に激怒する場合もあった。そのため、ある程度の距離感を保つためにインタビューではなくアンケート調査に切り替えることを視野に入れる必要があると感じた。またアンケート調査であれば、インターネットを通じて調査対象の数を多く稼げる可能性が高いために、定量調査も並行して実施できるなどの利点もあると考える。いずれにしても、早急に再調査の計画を立てる必要があると感じる。

 

4     終わりに

今回の助成金は主に現地への航空券代に使用することで、有意義な研究活動を行うことができました。この場をお借りして、感謝申し上げます。課題も多く残っていますが、今後さらに有用な研究となるように精進する所存であります。報告書は以上となります。ご覧いただきありがとうございました。