2005年度 SFC研究所プロジェクト補助 研究概要

バイオシミュレーションによる心筋細胞の特性の探究

環境情報学部 内藤泰宏

背景

心筋細胞は,産まれてから死ぬまで休むことなく拍動を続ける高度に制御の行き届いた細胞であるとともに,生物個体の死命を決する重要な細胞のひとつでもある.心筋細胞の拍動の基本要素である筋収縮は,細胞膜電位の変動(活動電位の発生)によって引き起こされる.膜電位の変動は,細胞膜を貫通して流れるイオンによって運ばれるイオン電流によって起こる.イオン電流は,イオンチャネル,イオン交換体などの膜貫通型のタンパク質によって運ばれる.こうした電気生理学的活動は,オームの法則等に則った単純な素過程の集合として理解できるが,たかだか20足らずのイオンチャネルであってもそれらが同時並行に機能する系の振る舞いを詳細に理解することは困難であり,新しい方法論が求められつづけてきた.

個々のイオンチャネルの性質に関する研究は,パッチクランプ法の発展により進んできた.パッチクランプ法は,細いガラス電極を当てて細胞膜パッチを作り,パッチ内を流れる電流を測定する技術である.ガラス電極内面と細胞膜との抵抗値はGΩに達するため,pAオーダーの電流を精密に計測することができる.また,パッチ内に単一のチャネル分子を捉えることも可能なため,パッチクランプ法により,細胞が生きた状態で,細胞を構成するある単一の分子の挙動を精密に測定できる.

こうした測定の結果から,測定結果をよく再現する数理モデルを構築することができる.心筋細胞の電気生理学的挙動を包括的に再現するモデルはこれまでに数件の報告がある.中でも京都大学の野間昭典らが構築したKyoto model(Matsuoka et al. 2003)は,心筋細胞に存在する既知のすべてのイオンチャネル,イオン交換体を個別の数理モデルとして実装した,非常に詳細な記述のなされたモデルである.Kyoto modelは,100元以上の常微分方程式と,分子平衡計算のための代数式から成る高度に非線形なモデルである.

このKyoto modelですら,心筋細胞の電気生理学的側面を表現しただけの,細胞の「部分モデル」である.しかしながら,その適用範囲を厳密に考慮することにより,非常に精密に心筋細胞の振る舞いを再現できることが示されている.

一方,ポストゲノム科学としてバイオインフォマティクスの重要性が唱えられているが,近年,その一分野であるシステム生物学が注目を浴びている.システム生物学は,細胞をはじめとした生命事象を,システム理論の見地から捉えようとする新しい分野で,要素還元主義的アプローチによって膨大に蓄積した,要素に関する知識をシステムに再構築し,細胞を含む生命事象の系(システム)としての理解を深めることを目的とする.

その重要なアプローチとして,バイオシミュレーションが挙げられる.バイオシミュレーションでは,細胞の構成要素に関する知識を,数理モデルとして統合し,シミュレーションを通して細胞(または組織,器官,個体)の振る舞いを俯瞰しようとする.

バイオシミュレーションで現在課題になっているのは,質・量の両面におけるデータの不足である.近年の生物学は分子生物学的手法を中心に進展してきており,その多くは定性的研究に留まっている.シミュレーション・モデル構築のためには(ある程度の)定量データが必要だが,不足しているのが現状である.これに対して,システム生物学のための網羅的測定技術,生物学的知識に基づく欠落データの補間技術などの開発が進められている.

Kyoto modelを構成する数理モデルの多くは,単分子を細胞が生きた状態で精密に測定できるパッチクランプ法のデータに基づいている.細胞内の反応過程について,精度面でこれに及ぶ測定方法はほぼ皆無であり,膜興奮を中心とした細胞活動の一側面とはいえ,Kyoto modelは,現存する最も高精度な細胞モデルのひとつである.また,心筋細胞では,各分子の活動,相互作用の結果が,膜電位,筋収縮といった単純な出力として現れるため,システムの挙動を把握しやすいという特徴がある.このようにKyoto modelは,良く構築された細胞シミュレーションが,生命事象の理解にどの程度貢献できるか,その可能性を探る試金石として格好の条件を備えているといえる.

目的

本研究では,Kyoto modelを細胞シミュレーション環境E-CELLシステム上に構築し,その電気生理学的動態を俯瞰することを目指す.

モデルの存在と,現象の理解は等価ではない.シミュレーション結果から,モデルを構成する要素間の相互作用を明らかにし,活動電位や筋収縮といった巨視的な現象が,どういった素過程の,どういった相互作用によって成立しているのか,また,そうした機能が成立しうる細胞のデザインの存在範囲はどの程度なのかといったことを追求してはじめて,心筋細胞の電気生理学的動態への理解が深まるといえる.

また,シミュレーションによる探究では,パラメータ空間の探索を容易に行うことができる.心筋細胞は,一時的な機能停止が個体の死に直結する非常にクリティカルなタスクを負った細胞であるため,進化の過程でおそらくは非常に安定に動作する機構を確立していると考えられる.Kyoto modelについて,その本来のパラメータによる解と,周辺のパラメータ空間に存在する別の可能な解(心筋細胞として機能する候補)の安定性を比較することにより,心筋細胞のデザインが進化的にどの程度最適化されているかという問題を検討する.

方法と結果

Kyoto modelには,健常のモルモット心室筋細胞と洞房結節細胞のモデルが含まれる.これを出発点として,Kyoto modelによるシミュレーションが有効な状態空間を探索した.細胞シミュレーション環境E-Cell3上に,Kyoto modelを構築し,以下のシミュレーションはこれを用いて行った.

天然ペースメーカ細胞と人工ペースメーカ細胞の安定性比較

Miakeらは,モルモットの心室筋細胞のKir2.1チャネルを遺伝子導入によって抑制し,人工的にペースメーカ細胞をつくりだした(Miake et al. 2002).Kyoto modelを用いて遺伝子導入実験をシミュレートし,人工ペースメーカ細胞のモデルを作成した.ペースメーカ細胞は心臓がその機能を維持するために欠かせない重要な細胞であり,その周期的拍動機能の安定性は,進化(数億年にわたる自然選択の積み重ね)を通して充分に安定化されていると考えられる.一方,人工ペースメーカ細胞は,心室筋細胞として進化してきた細胞に単純な改変を加えたものであり,機能的安定性は天然ペースメーカ細胞と異なると予想される.この問題を,分岐解析によって検討した.その結果,細胞外イオン濃度の摂動に対して,天然ペースメーカ細胞の安定性が優り,人工ペースメーカ細胞は,外部環境の変動に対して機能的脆弱性を有している可能性が示唆された.

心筋細胞発生過程のシミュレーションによる再現

上記の通り,心筋細胞はクリティカルな機能を担っており,厳格な自然淘汰にさらされてきたと推測される.進化は歴史と同様に一回性のものであるため,再現性を確かめるための追試は不可能で,過去に絶滅した生命についてはそのデザインを知ることすら難しい.特に,心筋細胞のように,生きて動く動態が重要になる場合,化石等によって得られる情報も非常に限られてくる.バイオシミュレーションを進化的な探索に援用することにより,現在存在している心筋細胞が,どの程度に洗練されたデザインを持っているか,また,今後の改変によりさらに好適なデザインを獲得する余地があるかどうかなどを議論することが可能となる.その足がかりとして,心筋細胞の発生過程のシミュレーションモデルを構築した.個体発生は系統発生(進化)を,その概要で模倣するとする議論がある.個体発生においても,心筋細胞は,一時として機能を喪失することを許されないという強い拘束条件の下で,その機能を連続的に変化させている.モルモットを中心とした齧歯類の発生過程のデータに基づき,心筋細胞の発生過程のモデルを構築した (Itoh et al. in press).今後,このモデルに基づき,心筋細胞発生過程のデザインについて探究したい.

結語

本研究により,細胞シミュレーションによって,これまでにない観点から,細胞の機能とその由来について探究できる可能性が示唆された.心筋細胞の機能的安定性,発生過程の諸段階の状態の関係は,従来の手法のみでは定量的考察の困難な対象であり,今回私たちのとったアプローチにより,既知の「現象」から,「実体」,「本質」への議論に前進できたものと考える.今後,より議論を深めることにより,心筋細胞機能の理解およびその応用に貢献していきたい.

本研究に関わる出版論文

Itoh H., Naito Y., Tomita M. Simulation of developmental changes in action potential with ventricular cell models. Synthetic and Systems Biology Journal , in press