2005年度SFC研究所研究助成
「新興国家形成のオントロジー的考察に関する基礎研究 」
慶應義塾大学総合政策学部教授
香 川  敏 幸

目次
I.研究目的
1-1. 目的
1-2. 研究メンバー
II. 活動内容
2-1. VII World Congress of International Council and East European Studies: 2005/7/25-30
2-2. フィールドワーク(ロシア):2005/9/12-16 
2-3. フィールドワーク(ウクライナ):2005/9/25-30
2-4. ブラウンバッグランチセッション
2-5. SFC Open Research Forum 2006: 2005/11/23
2-6. ウクライナの研究者との意見交換: 2006/2/17
III. 成果と今後の計画


I. 研究目的
1-1.研究目的
新興国家の形成を、政府の政策と国民の意識・認識の相互作用から読み取ること。その上で、国家を存在として把握するためのオントロジー的分析枠組みを確立すること。事例として、国家の役割が低下しつつある冷戦後の国際社会において近代国民国家の形成・強化が重要な国家課題となっているタジキスタンを中心に取り上げる。
冷戦後の国際社会では、経済を中心に国家の支配権が低下し、脱国家的な(地域)共同体が形成されつつある。他方で、中国の反日感情や頻発する紛争のようにナショナリズムも無視しえない力を持ちつつある。学術的にも、国民についての議論は絶えず繰り返されている。なかでも、国家に関わる「記憶」の議論が世界的に活発化している。これは、記憶に焦点をあて国民についての再定義を試みた『記憶の場 Les Lieux de Memoire』が1984年にフランスで出版開始されたこと(1992年最終刊が出版)がきっかけである。同書は、国民の形成において重要性を持つのが記憶であり、その諸記憶は多様で重層的であるとの認識にたっている。このような国民(国家)を巡る一種の認識論的議論、そして存在論的議論は、冷戦崩壊により合理主義に対する批判として構成主義アプローチが出てきたことでより注目されつつある。それというのも合理主義は、アイデンティティを行為主体の外的要因とし構造から切り離すため、冷戦崩壊を説明しきれなかったからである。しかしながら、これらの記憶を中心としたナショナリズム研究は歴史学的アプローチが主なものである。
他方で、旧ソ連のとくに中央アジア諸国は、その起源が1920年代につくられた一行政区にすぎない人工国家である。そのため中央アジア諸国にとって、近代的国民国家形成・強化が重要課題となっており、国民形成が歴史学の対象だけではなく、政治学、文化人類学はもちろん経済学の対象ともなりうる事例である。
そこで、本研究は1991年から今日までのタジキスタンの国家・アイデンティティ形成を、多角的な視点から考察するものである。本研究では、内戦そのものを国家形成の一過程ととらえ、結果としての国家形成ではなく、国家という枠組みがいかに形成されているかという、構成主義的オントロジーの視点から分析する。つまり、国民や国家機構がどのように国家を認識し、さらにはその認識がどのように国家を形作るのかという相互作用を分析することで、タジキスタンという存在を明らかにするとともに、その将来について考察する。中央アジアの国家、国民意識の形成・強化についての研究は、とくに、オントロジーの視点からの考察は行なわれはじめたばかりであり、国際的な視点からも萌芽的な研究である。
  本研究プロジェクトは、まずは上記の研究を進める上での国際的な共同研究体制構築なども含めた基盤整備を第一の目的としている。

1-2. 研究メンバー
香川敏幸 慶應義塾大学総合政策学部教授
フィルダウス・ウスモノフ タジキスタン外務省二等書記官
稲垣文昭 慶應義塾大学SFC研究所上席所員(訪問)
増田英二 慶應義塾大学SFC研究所所員(訪問)
中村建史 慶應義塾大学大学院政策メディア研究科後期博士課程



II. 活動内容

2-1.Z World Congress of International Council for Central and East European Studies(中東欧研究者会議第7回世界大会 )

大会テーマ「Europe ? Our Common Home?」
大会事務局 CTW ? Congress Organisation Thomas Wiese GmbH
Hohenzollerndamm 125 14199 Berlin Germany

2005年7月25日から2005年7月30日にかけて、ドイツの首都ベルリンにあるフンボルト大学(Humboldt University)を会場として開催された。5年に一度開催される本学会では、2003年のEU東方拡大を踏まえ、拡大EUと新たなEUの周縁となったロシア、ベラルーシ、ウクライナに加え中央アジアなどの旧ソ連諸国や旧ユーゴスラヴィア諸国にも焦点が当てられた。このことは、副題が”Europe ? Our Common Home”と題されていることでも明らかである。
当学会において、本研究プロジェクトメンバーである中村建史(慶應義塾大学大学院政策メディア研究科後期博士課程)がPanel No.XX.7 European Models of Peacekeeping as a Learning Bridge for Japan にて、Models of Peacekeeping and Crisis Management in Europe: Towards Institutionalized Cooperationと題して本研究プロジェクトの成果報告をおこなった。EU、NATOそして国連といった国際機関が紛争に果たす役割、そしてどのように紛争当事国側に認識されていたかということを明らかにした。
なお、当発表と前後して、本プロジェクトの研究を発展させる一つのモデルとして、「体制移行諸国における制度変革・政策移転に関する研究」を研究プロジェクト代表者である香川敏幸(慶應義塾大学総合政策学部教授)とB.フィエドロ・ヴロツワフ経済大学学長(ポーランド)及びK.グルカ・クラクフ経済大学教授(ポーランド)と共同で立ち上げることに合意し、11月23日に『慶應義塾大学SFC ORF 2005』 にてポーランド側の制度変革・政策移転に関する論考の発表をおこない、更には今後の協力関係の更なる強化に向けた方針の確認を行うことで合意した。


2-2. フィールドワーク(ロシア):2005年9月12−16日

出張者:香川敏幸(総合政策学部教授)、増田英二(SFC研究所所員(訪問))

主旨:慶應義塾大学が2005年7月に大学間協定を締結した、サンクト・ペテルブルグ大学との共同研究及び意見交換。

協議相手:スタニスラフ・トゥカチェンコ(サンクトペテルブルグ大学副学長)、ドミトリー・エフスタフィエフ(サンクトペテルブルグ大学助教授)

成果:本研究プロジェクトの基礎概念である「オントロジー(存在論)」および「認識論」の社会科学における応用、特に国家建設過程分析への応用に賛同を得る。エフスタフィエフ助教授は、ロシアのコンシューマー・ビヘイビアに関心を持っており、経済学立場からの将来的協力と12月に日本での再協議について確約をえる。
また、ロシア、特にサンクトペテルブルグ市におけるソ連崩壊後の歴史的記憶について説明を受ける。


2-3:フィールドワーク(ウクライナ):2005年9月26−30日

出張者:稲垣文昭(SFC研究所上席所員(訪問))

主旨:共同研究体制の構築およびウクライナにおける国家建設、歴史的記憶の再構築についての調査。

成果:
(1)ウクライナ国家安全保障防衛評議会付属国際安全保障研究所 
協議相手:アナトリー・グスタル(第一副所長)、オレグ・ブサチューク(ステートエキスパート)、ネドバエフスキー・レオニードビッチ(ステート・エキスパート)
独立後のウクライナにおける歴史的記憶や表象の国家建設に果たす役割について説明をうける。また、将来的な共同研究の可能性について確認する。

(2)キエフ国立タラス・シェフチェンコ大学国際関係校 
協議相手:アレクサンダー・ロガチ教授
中央アジア研究に関する将来的な協力関係構築を模索することで合意。


2-4.ブラウンバッグ・ランチセッション

稲垣文昭(慶應義塾大学SFC研究所上席所員(訪問))
「中央アジアへのオントロジー的考察」

本研究プロジェクトの、仮説として1991年に独立した中央アジア諸国に対する研究にオントロジー、とくに国際政治学の構成主義的アプローチの可能性について考察した。分析する上での足場となる「場」としての中央アジアが国際社会によって与えられたもの、つまり他者から与えられたものである一方でそのような他者との邂逅を通して中央アジア諸国が自己を認識し再構築するために歴史的記憶を選択しているとおもわれる状態を紹介するとともに、認識によってつくられる表象を通して認識の連鎖がおこり、分析対象(この場合は中央アジア地域もしくは中央アジア諸国)が実態として存在している様態の可能性を提示した。


2-5.SFC Open Research Forum 2005:2005年11月23日

ワークショップ:
「超地域・超領域のガバナンス」研究プロジェクト主催
『知の底力は時空を超えるか−地域研究の諸相を抉る−』
at Roppongi Academy Hills 40F C-2


このワークショップ開催のため、研究パートナーである2大学のポーランド側研究者(学長1名、教授1名、講師2名)を招聘した。
議長 香川敏幸(慶應義塾大学総合政策学部教授)

稲垣文昭(慶應義塾大学 SFC研究所上席所員(訪問))
「超地域・超領域のガバナンス」研究プロジェクトについて
本年香川研究室のかかえるプロジェクトについての整理と、当ワークショップの意義について。

ボグスワフ・.フィエドロ(ヴロツワフ経済大学学長)
「市場経済移行への理論的分析基盤としての新制度学派経済学」
ポーランドの1989年以降の移行経済について、新制度学派経済学が理論的分析基盤として有用であることを提示した。

クシメナ・ロシェク(クラクフ経済大学講師)
「EU法へのポーランドの環境政策の適用の影響」
ポーランドのEU環境アキ・コミュノテールの受容の過程を詳細に検証した論考。ポーランドの国内制度とEUの環境法との接合の困難と今後の可能性について論じる。さらに、この種のポーランドの経験が今後南東欧およびウクライナ・中央アジア諸国へと伝播する可能性についても触れた。

モニカ・グラボフスカ(ヴロツワフ経済大学講師)
「ポーランドのEU加盟後の企業に対する環境要件」
ポーランドにおける環境要件が、企業の負担であるとされた1990年代から、EU加盟後には環境要件が企業の競争力となると考えられるようになった現在までの流れを概観した。

カジミエッシュ・グルカ(クラクフ経済大学教授)
「ポーランドとウクライナの経済関係」
体制移行期ポーランド経済について概観するとともに、増加するウクライナとの経済交流について、経済制度の東方への伝播という側面から概観した。今後特にポーランド経済におけるウクライナの役割が増加するとの見解がしめされた。


2-6.ワークショップ「地域変容の諸相−EUから旧ソ連へ−」 :2006年2月17日
(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス ゲストハウス セミナールーム)

概要:ウクライナから2名の研究者を招いてのワークショップ。

(1)アレクサンダー・ロガチ (キエフ国立タラス・シェフチェンコ大学国際関係校教授) 
“EU Integration Strategy of Ukraine: Impact on Regional Policy and Co-operation”
1991年以降のウクライナの外交政策を概観し、ロシアとEUのはざまでリージョナル・リーダーとしての役割をウクライナが果たしうるかどうかについて検証した論考。特に、中央アジアからEUに至る運輸回廊やエネルギー回廊が建設されることにより、ウクライナと中央アジア諸国との関係の密度が高まることを示す。国際政治学的に、中央アジアがEUの欧州の延長線上に認識されえることを示す。

(2)オレグ・ブサチューク(ウクライナ国家安全保障防衛評議会付属国立国際安全保障研究所
“The Researcn Methodorogy of the Geopolitical Region”
歴史の影の側面が現代社会に及ぼす影響を、Shadow Flowという概念を提示した。欧州地域および旧ソ連、特に中央アジアの地域変容の底流には表層に出てこないが確かに流れているShadow Flowという要因を分析することが重要であるとの論旨。地政学的に欧州からウクライナ、中央アジアへの地域変容の波を分析することを提案するとともに、認識論にもとづく歴史研究の重要性を示した。



III この研究助成による成果と今後の計画

 本研究は冷戦体制崩壊による、新興国家形成について、重層的な視点からの分析基盤構築を目指したものである。研究メンバーの興味関心の多様性を集約するために、分析対象として旧ソ連のタジキスタンを中心とするとともに、「構成主義的オントロジー」を共通分析枠組みとして提唱しその有効性を検討してきた。
周知のとおり、歴史社会学の立場からナショナリズム研究においてはすでに、近代主義という立場から国民(ネイション)を認識レベルから捉える研究はなされてきている。加えて、研究計画書でも示したとおり「記憶の場」ということで集団的記憶が共同体形成に果たす役割についても議論されている。本研究では、これらの既存の研究を踏まえつつ、より広範な社会科学の立場から「存在論」をキーワードにして新興国家建設過程の分析を試みた。それというのも、今日国家建設問題は一国の内政にとどまるものではなく、より国際政治学、経済学などの多角的な側面から考察する必要性に迫られていると考えるからである。たとえば、国家建設の失敗は内戦へと発展し、国際社会の関与を生み出すことからも理解できよう。また、国家や共同体の構成主体についても、ネイション、エトニ、エスニシティなどと多様な定義が生み出されてきている。これは、ネイションという言葉が示す集団が国家、地域、分析者立場によって多様に認識されることからより厳密な定義が必要となり生み出されてきたことが原因と考えられる。本研究においては、いまさらながらこれらの語句定義の難しさが理解される一方で、構成主義的視点からの分析、とくに存在論の立場からの分析の必要性が見出せたと考えている。
 しかしながら 本研究は萌芽的な基礎研究であることもあり、残念ながら十分な成果を現時点で示すことはできない。また、歴史的記憶に注目した構成主義的オントロジーの分析も出るとしての有効性について十分に実証できたとはいい難い。しかしながら、研究プロジェクトメンバーの努力により、 「II.活動内容」のでも示したように国際学会報告などわずかかもしれないが成果がしめせるようにもなった。また、研究を発展させる上での国際的な共同研究体制構築も進んでいる。特に、ロシアとウクライナという旧ソ連圏の研究機関との共同研究体制が構築されつつあることは、タジキスタンを研究対象とする本研究を発展させる上で重要な成果であったといえる。
  今後の研究計画として、本研究プロジェクトで蓄積した国際的な共同研究体制および学術的蓄積をもとに2006年度以降は外部資金を獲得を目指す一方で、Transition Studies Reviewなど海外の研究雑誌を含め論文を投稿することで成果を示すこととしたい。