研究課題名:生命システムにおける様相の検討

環境情報学部 内藤泰宏

 
 

現在の生命科学の主流は、1953年、WatsonとCrickがDNAの二重らせん構造を突き止め、その発見を報告する論文の末尾に添えられた、DNAは遺伝情報を複製する能力を備えうるという控えめな推論に源を発している。DNAの二重らせん構造の発見は、Schrödingerが生命について論考した講演録「What Is Life? Mind and Matter」(1944)に応えるものだった。Schrödingerはその中で、世代を重ねても破綻することなく自己複製し維持される生命システムが成立する条件として、非周期性の固体が必要であると推論した。WatsonとCrickが発見したDNAの二重らせん構造と、DNAの塩基配列は、Schrödingerの非周期性固体の解明された実体であると認識された。以来半世紀あまり、二重らせんDNAは、セントラルドグマの名の通り、生命科学の知識体系の中心にあり、DNAにコードされた遺伝情報を読み解くことで、生命システムについて解明することができると信じられてきた。

生命科学には、科学と工学の両側面が、密接に関連しながら含まれている。科学的な側面とは、生命とは何か、生命システムの動作原理はどう理解されるのか、といった問題の探究である。工学的側面とは、生命システムの振る舞いを予測し、制御する試みである。生命システムを工学的に予測、制御することは、医療、農業、環境への応用に直結するため、大きな社会的期待・要請がある。二重らせんDNAの物理化学と、遺伝学をはじめとする生物学が融合して始まった分子生物学は、そうした期待・要請に応えてきた。癌遺伝子などをはじめとする「原因遺伝子」が数多く発見され、20世紀末の技術革新によって、個々の遺伝子ではなく、ある生物種の遺伝情報のセットであるゲノムをまるごと読み尽くすことすら可能となり、今も解読速度は日々躍進している。

分子生物学を中核とする現代の生命科学は、数多くの生命に関する謎に解答を与えたが、その解答の多くは相関関係でしかない。ある遺伝子が、ある種の癌の原因になっていることが明らかにされるとき、発病との相関関係は定量的に示されるが、ある種の遺伝情報を持つことと発癌までのプロセスが、因果関係の鎖によって結びあわされて説明されることはまず期待できない。

その結果、分子生物学を中心とする現代の生命科学は、生命システムを予測・制御する工学的側面では多角的かつ飛躍的な成功を収めているが、そもそも生命とは何であり、どこからやってきたのかという素朴な科学の問いには満足に答えることができていない。

また、自然科学とは定式化と再現性に依拠する方法論であり、自然現象を裏付ける原理を定式化し、それが自然に対する観察や実験を何度繰り返しても矛盾しないことをもって、提出された理論の正しさを認定するわけだが、われわれ人類が観察できる生命進化は、現在地球上で進行しているこの生態系ひとつしかない。

われわれ自身を含み、われわれが観察可能なこの生態系に見られる事象には、他に可能なすべての生態系でも必ず見られる必然の要素と、われわれの生態系でたまたまそうなっているだけの偶然の要素が混じり合っている。生命とは何か、という問いに正面から答えるためには、この偶然と必然を弁別する方法もまた必要といえる。

 

本研究では、可能世界、様相論理の方法を生命科学に導入することで、生命システムにおける偶然と必然の探究を試みた。

個別具体的な生命システムでは、分子レベルから生物個体あるいは個体群といったレベルまで、さまざまな階層でそのデザインが確定している。眼球が二つあるといった解剖学的デザインや、体細胞の染色体は46本(23対)であるといった分子レベルのデザインまで、膨大な数のデザインがあり、それらのデザインは、生命進化の過程のある時点で確定した特異性singularityとして捉えることができる。

de Duveは、生命システムの種々のsingularityを、以下の7つに分類した。

 

  1. 1.Deterministic Necessity:物理法則、地球環境等の要因により、必然であるsingularity。

  2. 2.Selective Bottleneck:外部環境による選択によって生じるsingularity。いわゆる自然選択。

  3. 3.Restrictive Bottleneck:内部状態による選択によって生じるsingularity。過去の進化による制約など。

  4. 4.Pseudo Bottleneck:一見なんらかの選択があるようだが、実際には偶然生じたsingularity。

  5. 5.Frozen Accident:過去に生じた偶然が、現在の状況を拘束している状況。遺伝暗号表など。

  6. 6.Fantastic Luck:2度と生じないであろう奇跡的なsingularity。ヒトの進化もこれに当たるかもしれない。

  7. 7.Intelligent Design:神などの高度で多くの場合不可知な知性による設計。

 

de Duveは様々立場に対して公平を期すために最後の項にIntelligent Designを挙げているが、これは科学的な手続きで検証できない主張なので、以下では、1〜6の六つを検討する。

これらを様相論理によって規定するとおよそ以下のように考えられる。論理記号□は必然を、◇は可能を、▽は偶然を表す。

 

Deterministic Necessity:

あるsingularity Sについて、□Sである。

 

Selective Bottleneck:

あるSと、外部環境によるある拘束条件Ceについて、Ce→□Sである。

 

Restrictive Bottleneck:

あるSと、生命システムの内部構造によるある拘束条件Ciについて、Ci→□Sである。

 

Pseudo Bottleneck:

あるSについて ◇S ∪ 〜□S すなわち ▽S である。

 

Frozen Accident:

現存するある生命システムをLとし、n個の可能なsingularity S1〜Sn(この中には現存するsingularityを含んでいる)について、L → □(S1∩S2∩…Sn)かつ、S1〜Snの中の任意のSiについて◇Si ∪ 〜□Si すなわち ▽Si である。

 

Fantastic Luck:

あるLとSについて、L→□SかつS≒0 である。

 

様相は、可能世界における到達関係によって記述できる。現存する生態系しか知り得ないわれわれは、可能な生命システムを実際に知ることはできないが、数理モデル化した生命システムをわずかに改変することによって、現存しないが可能であったかもしれないシステムを作成することができる。このように、現存する細胞を模して構築した数理モデルを改変することによって得られる数理モデル群を可能生命システムと仮定し、仮想的な論理空間を探索することができる。

 

本年度の研究では、具体的に用いる数理モデルとして、モルモットの心室筋細胞の電気生理システムを精緻に再現したKyoto Model(Kuzumoto et al., 2007)を選択し、シミュレーション環境E-Cell 3に実装するまでに止まり、実際に数理モデルを用いて論理空間を探索する段階にまでは至らなかった。

今後、Kyoto Modelを用いて、様々な視点で仮想論理空間の探索を実施し、6つのsingularityの成立の可否を検討し、様相論理と数理モデルを用いた新しい生命科学の可能性について検証を積み重ねていきたい。