2010年2月28日
2009年度 慶應義塾大学SFC研究所プロジェクト補助
研究概要報告書
研究課題名 外国人医療職との協働に向けた異文化受容能力の開発
研究代表者 慶應義塾大学看護医療学部 教授 杉本なおみ
共同研究者 慶應義塾大学総合政策学部 教授 野村亨
東京大学医学教育国際協力研究センター 講師 大西弘高
静岡県立大学短期大学部看護学科 助教 影山葉子
済生会横浜市東部病院人材開発センター 主任 鈴木美保
目的
日本とアジア諸国政府間の経済連携協定により、今後多数の外国人看護師候補者が来日することとなった。これに伴い、各受入機関においては、文化差による混乱の生じることが予測される。この異文化協働の成否は、受け入れ側となる日本人職員の受容能力にも大きな影響を受ける。そこで本研究においては、日本人病院職員に対する異文化受容能力開発研修を設計・実施し、その効果を測定することを目的とする。
背景および意義
平成20年7月1日に発効した日・インドネシア経済連携協定(EPA)に基づき、今後2年間で1000人ものインドネシア人看護師が来日するという事実が、本研究の背景である。これは日本にとって初の医療専門職受け入れの事例であり、これほど多くの外国人看護師が日本の医療現場で働くようになるのは未曾有の事態である。
これに伴い、医療現場では文化や習慣上の違いなどに起因するさまざまな軋轢や摩擦が生じることが予想される。そのためEPAを受けて告示された「経済上の連携に関する日本国とインドネシア共和国との間の協定に基づく看護及び介護分野におけるインドネシア人看護師等の受入れの実施に関する指針」(平成20年5月19日厚生労働省告示第312号)においては、「研修責任者の配置」や「研修計画を実施できる体制の整備」といった受入機関側の条件が厳しく定められている(勅使河原 2008)。しかしこれらはすべて来日する外国人看護師候補者向けの研修であり、受入機関で働く日本人職員に対する異文化受容の研修については一切言及されていない。
異文化接触は常に双方向であり、外国人看護師候補者の適応能力のみに依存するものでないことは論じるまでもないことであろう。しかし先行研究(300床以上の医療機関を対象とする調査)によれば、日本人看護職は非看護職に比べ、外国人看護師候補者に対する受容傾向が低いことが明らかになった(平野 2009-2)。また、看護職に限らず、職員全般の意識に関しても懸念の声が聞かれる。それは、今まで単純労働者に限って外国人の受け入れを認めてきた日本社会においては、「外国人労働者=単純労働者」という認識が固定化しており(平野 2009-1)、本来母国においては高い社会的地位にあるインドネシア人看護師が、当初看護助手として働くこと、あるいは単純労働者と見なされることに戸惑いを覚えるのではないかという点である(大村 2009)。このような諸要因を考え合わせると、外国人看護師候補者の来日前後に、受入機関側の日本人職員に対して、異文化受容能力の向上を目的とする研修を行うことの意義は計り知れない。
その一方で、外国人看護師候補者受け入れを必要とする医療機関の大半においては、異文化トレーニングを実施するだけの教育資源を持ち合わせていない。事実、インドネシアからの第一陣受入人数も208名と、当初の目標数(500名)を大幅に下回る結果となった(大村 2009)。これには厳しい受入条件や費用負担といった理由と並び、医療機関側の受入体制が整っていないという理由が考えられる。
このような背景を踏まえ、受入機関日本人職員向けの異文化受容能力向上プログラムを開発し、試行を重ねて広く全国の医療機関での実用に供することは、外国人職員・日本人職員双方の勤務満足度の安定につながり、ひいては医療の円滑な提供に資することとなる。
方法
横浜市済生会東部病院職員(医師・看護師・検査技師・事務職員等)52名を対象に、(1)異文化適応モデル(Adler, 1975)、(2)外国人看護師候補者の出身国(インドネシア)の基本情報、(3)異文化協働における注意点、(4)異文化協働に際しての疑問や不安 の4部からなる90分の研修を実施した。
研修の教育効果は、(1)相手国に関する知識と、(2)異文化受容能力の2つに分けて測定した。
相手国に関する知識は、(1) インドネシアの地理・人口・民族・言語(4項目)、(2)インドネシアの文化と社会(5項目)、(3)外国人看護師候補者の日本への適応に関する知識(1 項目)の10項目からなる質問紙(下表参照)を作成し、対象者全体に占める正解者の割合を研修前後で比較した。
設問 1 |
インドネシアの地理・人口・民族・言語 |
インドネシアの面積 |
設問 2 |
インドネシアの人口 |
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設問 3 |
インドネシアの民族 |
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設問 4 |
インドネシアの言語 |
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設問 5 |
インドネシアの文化と社会 |
イスラム教徒の食事 |
設問 6 |
外国人看護師候補者の資格 |
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設問 7 |
イスラム教における祈り |
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設問 8 |
インドネシア人への対応 |
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設問 9 |
同国人同士の関係 |
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設問10 |
外国人看護師候補者の日本への適応に関する知識 |
異文化適応の段階 |
異文化受容能力の測定には、マツモト(1999)の開発した「国際適応力診断テスト短縮版」(八代、荒木、樋口、山本、コミサロフ 2001)を用いた。12項目の質問に対する回答を、「感情制御(曖昧さに対する忍耐度)」(最大値 5;最小値 -13)「オープンなこころ(批判的思考力および創造性)」(最大値 13;最小値 -5)「柔軟性(および開放性)」(最大値 13;最小値 -5)「自己受容度(自尊心)」(最大値 13;最小値 -5)の4要素に分け、対象者全員の平均得点を研修受講前後で比較した。
結果
<相手国に関する知識>「インドネシアの文化と社会」に関する質問のうち不適切と認められた1項目(設問5 イスラム教徒の食事)を除外した。残り9項目の研修前後の正答率と、正確確率検定の結果は下表の通りである。
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設問1 |
設問2 |
設問3 |
設問4 |
設問6 |
設問7 |
設問8 |
設問9 |
設問10 |
研修前正答率 |
0.12 |
0.26 |
0.14 |
0.10 |
0.82 |
0.10 |
0.06 |
0.70 |
0.33 |
研修後正答率 |
0.94 |
0.88 |
0.96 |
0.96 |
0.92 |
0.63 |
0.22 |
0.85 |
0.65 |
正確確率検定 p |
<0.001 |
<0.001 |
<0.001 |
<0.000 |
0.125 |
<0.001 |
0.039 |
0.146 |
0.001 |
すべての項目において研修前より研修後の正答率が高くなったが、このうち設問6(資格)と設問9(同国人同士の関係)に関しては、正答率の差が有意ではなかった。
<異文化受容能力>「感情制御」(受講前 -3.14;受講後 -3.55)「オープンなこころ」(受講前 2.91;受講後 3.24)「柔軟性」(受講前 6.04;受講後 5.96)「自己受容度」(受講前 6.02;受講後 5.98)の4項目すべてにおいて、Wilcoxon符号検定により、研修前後で有意となる差は見られなかった。「感情制御」のスコアは減少(p=0.06)、「オープンなこころ」のスコアは増加(p=0.06)の傾向だが,効果量はそれぞれ-0.17,0.15と、0.2未満の小さな効果であった。
考察・結論
相手国に関する知識は、90分という限られた研修であっても向上させることができた。有意差が得られなかった設問6(資格)と設問9(同国人同士の関係)は、いずれも研修前から他に比べて正答率が高かった項目であり、そのために正答率の大幅な向上が見られなかったと考えられる。
一方、異文化受容能力に関して は、その前提となる4要素全てにおいて短期的な教育効果は認められなかった。これは、異文化受容能力は、特定の国に関する知識などとは異なり、短期的かつ 単発の教育介入で容易に向上する性質のものではないという既存研究の結果に沿うものであった。
外国人看護師候補者との協働に 際しては、定期的・継続的介入により日本人職員側の異文化受容能力を向上させることが一つの鍵であるが、勤務形態や経費面の理由により、医療現場において そのような教育を持続することは容易ではない。引き続き受入医療機関の実情に即した異文化受容能力研修の実施形態の検討が必要と思われる。
成果
本研究資金申請時点では、上記の研究のみを想定していたが、実際には以下に掲げるサブプロジェクト等、予定を先取りした成果を得ることができた。
1.本プロジェクトから派生したサブプロジェクト
1−1 インドネシア人看護師に対するインドネシア語による適応支援
本研究の過 程において、日本特有の「給与天引き」という仕組みが、外国人看護師候補者にとっては分かりづらく、しばしばトラブルの元となっていることが判明した。そ のため、2時間程度をかけて、本プロジェクトメンバ−(野村)が、東部病院人事課職員による給与明細の説明をインドネシア語に通訳し、看護師候補者に疑問 や不満が残らないような支援を行った。
1−2 SFC学生ボランティアによる看護師候補者との交流会
異文化適応 の初期段階においてしばしば問題となるのが、自己効力感の低下である。そこで湘南藤沢キャンパスにてマレー・インドネシア語を受講中の学生から希望者を募 り、看護師候補者との交流会を実施した。母国では看護師としての長い経験を有しながら、現在日本では常に「教わる立場」に置かれているインドネシア人看護 師候補者が、母国語を通じて学生に「教える立場」となることで、自己効力感が回復あるいは維持されることを意図した試みである。一方、学生にとっても、教 員以外のインドネシア語母語話者と会話をする数少ない機会であり、さらなる学習への動機付けとなることが期待される。
2.社会還元
EPA関連業務に従事する外務省職員(経済局サービス貿易室室長古谷徳郎氏、アジア大洋州局南部アジア部南東アジア第二課 岡部大介氏、経済局国際貿易課FTA/EPA調査員 渡邊顕太郎氏)に対し、研究概要とその過程を通じて得た所感を提示する機会を得た。
3.メディア取材
プレスリリース:研修実施に先立ち、義塾広報室から下記のようなプレスリリースを配信した。http://www.keio.ac.jp/ja/press_release/2009/kr7a430000027zth.html
http://www.keio.ac.jp/ja/press_release/2009/kr7a430000027zth-att/100107_1.pdf
その結果、共同通信社、ジャパンタイムズ社、朝日新聞社から取材要請があった。本報告書提出時点での報道状況は以下の通りである。
・ ジャパンタイムズ社 Guiding hand for Indonesian nurses: Program helps hospital ease assimilation for
newcomers 2010年1月29日 The Japan Times (http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20100129f1.html
・ 朝日新聞社 朝日新聞神奈川版(近日掲載予定)
・ 共同通信社 (近日配信予定)
今後の流れ
1.
学会発表
「日本人病院職員を対象とする異文化受容能力開発研修」(筆頭著者 杉本なおみ)および「病学連携としての外国人看護師候補者支援」(筆頭著者 鈴木美保)として、日本医学教育学会で発表の後、関連学会誌に投稿の予定である。
2.
外部資金応募状況
下記3件の外部資金に応募し、本報告書提出時点で1件が採択された。
・ 財団法人医療科学研究所研究助成「日本人病院職員の異文化受容能力が外国人看護師との協働に与える影響」採択。
・ 日本学術振興会平成22年度科学研究費補助金(挑戦的萌芽研究)「外国人看護師と協働する日本人医療職を対象とした支援システムの構築」申請中。
・ 日本学術振興会「異分野融合による方法的革新を目指した人文・社会科学研究推進事業」「視点は興味深く、重要な現実的問題に関するテーマである」という講評を得るも不採択。
3.
研究の継続・発展
応募中の外部資金受諾状況に応じて、以下のような形で研究を継続することも検討中である
・ 外国人看護師候補者に対する異文化適応に関する聞き取り調査
・ 本学看護医療学部生による、外国人看護師候補者看護師国家試験受験対策支援
参考文献
大村淑美(2009)「海を渡る労働力−インドネシア・フィリピンからの看護師」『看護実践の科学』34巻4号 78-79.
勅使河原香世子(2008)「EPAに基づくインドネシア人看護師受け入れに関して」『看護』60巻10号 28-29.
平野(小原)裕子(2009-1)「外国人看護師、臨床現場に:なぜ今、海外から看護師が来るのか?」『ナーシングトゥディ』 24巻1号 78-79.
平野(小原)裕子(2009-2)「外国人看護師、臨床現場に:インドネシア人看護師受け入れに当たって留意すべきことは?」『ナーシングトゥディ』24巻2号 74-75.
デーヴィッド・マツモト (著) 三木 敦雄 (訳) (1999) 『日本人の国際適応力』本の友社
八代京子・町恵理子・小池浩子・磯貝友子(1998)『異文化トレーニング』三修社
八代 京子・荒木 晶子・樋口 容視子・山本 志都・コミサロフ 喜美(2001)
『異文化コミュニケーション・ワークブック』三修社