農山漁村地域のレジリエンスを高める大震災復興計画

一ノ瀬友博(環境情報学部)・池田靖史(政策・メディア研究科)・厳網林(環境情報学部)・古谷知之(総合政策学部)・中島直人(環境情報学部)

 

Abstract

The Tohoku earthquake happened on 11 March 2011 has destroyed most of rural areas along Pacific Coast at the eastern part of Japan. There have been depopulation and aging problems in such areas before the earthquake. The damage will cause worse impacts to these areas. I discussed the reconstruction plan of depopulated rural area from the viewpoints of traffic infrastructure, residential area, industry and decision-making. We have to take "backcasting" approach for sustainable development. It is a way of planning in which a successful outcome is imagined in the future. The organization and platform supporting the planning are necessary to decision-making within an area.

 

1.はじめに

 北海道から首都圏まで非常に広範囲に激烈な被害をもたらした東日本大震災は、原発事故を始め様々な特異性を有しているが、その一つが広範囲にわたる農山漁村地域の津波による被害である。津波による浸水被害を受けた自治体のうち、2010年時点の人口が10万人以上である自治体は仙台市と石巻市しかない。人口規模では3番目にあたる気仙沼市(73494人)を始め、数万人規模の自治体は数多く見られるが、それらのほとんどが平成の大合併を経て一定の人口規模は有しているもののほとんどが農山漁村地域で形成されている。例えば、気仙沼市は2006年に旧唐桑町と、2009年に旧本吉町と合併し、現在の規模になった。それぞれの自治体に人口集中地域はあるが、被災した面積という意味では農山漁村地域が大部分を占めている。

 東日本大震災で被災した岩手県や宮城県の地域の多くは、これまでも明治29年の明治三陸津波、昭和8年の昭和三陸大津波の被害を受けており、災害自体は特異的ではない。しかし、わが国が急速な人口減少、高齢化局面に入った中での大震災という特徴がある。国土審議会政策部会では2010年度に長期展望委員会を設置し、2050年の国土像を現在のトレンドから予測した。筆者のうち一ノ瀬も委員としてその議論に参加してきたが、そこから見えてきたのは一部の大都市圏を除き、日本全国で人口が減少し、現在の居住地域のうち、約2割は無住化し、約2割は1平方キロメートルあたりの人口が10人未満という姿である。無住化する地域は日本全国の農山漁村地域に広がっている。今回被災した三陸地域も人口減少と高齢化が顕著な地域として知られてきていて、多くの地域が無住化することが予測されていた。

 2005年から2010年の国勢調査の結果を比較した人口減少率を見ても、仙台周辺の名取市などを除き、今回津波被害を受けた自治体のほとんどが減少率5%以上であり、高齢化率は30%程度か、30%を越えている自治体も多い。このような傾向はほぼすべての農山漁村地域の被災地に共通しており、今回の大震災がさらに時計の針を早めたことになる。人口減少時代と言われてからの農山漁村地域の震災という意味では中越地震をあげることができるが、今回の大震災に比べれば被災した範囲が限られていたために、旧山古志村に1000億円以上の資金を投入するような復興が可能であった。国家財政がさらに逼迫している現状の中で、人口減少・高齢化局面にある農山漁村地域をどのように復興させるのかは、私たちがこれまで全く経験したことがない課題である。

 

2.農山漁村地域における高台移転

 本原稿を執筆している2012年2月末の時点では、震災から1年を迎えようとしている。年度末が近づくにつれ、高台移転や集落移転がマスコミでも盛んに取り上げられている。2011年6月25日に東日本大震災復興構想会議により「復興への提言~悲惨の中の希望~」が公開され、被災地域が5つにタイプ分けされ、それぞれのタイプごとに復興の考え方が示された。これらの中でも市街地のかさ上げや避難タワーの建設などと同時に、高台移転や集落移転が提案されている。

 津波被害をこれまでも受けてきた被災地では、高台移転は取り立てて新しい対策ではない。明治三陸津波、昭和三陸大津波を経て、たびたび試みられてきており、失敗も繰り返してきた。三陸地域の津波と高台移転の経緯については、古くは山口1)の報告などが見られるし、今回の大震災に際しても、中島・田中2)などの紹介も多数あるので、ここでは詳細に記載しないが、概ね4つのパターンに分けられる。つまり、過去に高台移転を実施し今回ほとんど被害がなかった地域(例えば大船渡市吉浜地区)、高台移転を実施したものの以前の被災地に居住地が拡大し、拡大した居住地が大きな被害を受けた地域(例えば大船渡市綾里地区)、高台移転を実施したものの高さが不十分で大きな被害を受けた地域(例えば気仙沼市大谷地区)、高台移転を実施しなかった地域(例えば宮古市田老地区)である。高台移転によって今回の津波の被害を受けなかった地域は非常に限られており、多くの農山漁村地域ではこれまでも一部高台移転をしてきたものの高さが十分でなかったり、再び低地に広がった居住地が大きな被害を受けた。それは漁業従事者の多くが港や海から離れることを嫌ったり、記憶が薄れるにつれて便利な低地に移ったり、移住者が津波被害についてあまり知識のないまま移り住んだ結果であるとされている2)。

 政府は防災集団移転促進事業を使って、高台移転を進める方針を示している。震災以前の制度でも事業費の大部分を国が負担することになっているが、一定の自治体の負担が生じるので、政府は第三次補正予算で高台移転の費用を全額国庫負担することを決定した。被災した農山漁村地域の多くで、高台移転の検討が進んでいる。筆者らは気仙沼市や南三陸町で被災した地区のいくつかでヒアリングを実施しているが、ここでは気仙沼市小泉地区と舞根地区の高台移転について紹介しよう。

 気仙沼市の最南端に位置し、2009年に合併した旧本吉町の一部であった小泉地区は、小泉大橋の流失により、一時的に孤立状態に陥った。過去には高台移転をしておらず、低地にあった集落は甚大な被害を被った。地区内の518世帯中266世帯が流出・全壊、42世帯が半壊・浸水被害を受け、1810人中43名が死亡か行方不明である。小泉地区の高台移転の検討は、迅速であった。3月末には小泉の明日を考える会が40代から50代の住民により立ち上げられた。6月には小泉地区集団移転協議会も設立されて、具体的な検討に入っている。小泉地区の最も大きな特徴は、積極的に外部の専門家に支援を仰ぎ、ホームページTwitterを使って情報発信をしていることである。北海道南西沖地震後の奥尻島の復興に詳しい北海道大学大学院の森傑教授を招き、住民主導の高台移転計画を進めてきている。その経過は詳しく森3)が紹介しているが、7月後半の時点で移転計画を検討していく詳細なプログラムを定めており、ワークショップを頻繁に行うことにより移転を希望する住民間の合意形成をはかっていることがうかがえる。この小泉地区の活動はほとんど市の支援を受けない形で行われていて、住民主導の高台移転の動きとして、たびたびマスコミで紹介されている。

 次に紹介したいのは、2006年に気仙沼市に合併した旧唐桑町に位置する舞根地区である。舞根地区は大きく二つの地区からなっており、筆者がヒアリングにうかがっているのは、西舞根と呼ばれる行政区である。NPO法人森は海の恋人の活動拠点として有名である。舞根地区も被災直後の3月末から高台移転の検討を始め、市にも要望をしてきた。小泉地区と大きく異なる点は、外部の専門家などを招かずに、住民だけで検討を重ねてきたところで、中越地震で被災した旧山古志村の視察なども独自に実施している。地区の52世帯のうち、44世帯が全壊あるいは流出し、5名がなくなった。現時点で地区内の30世帯と地区外から1世帯の31世帯が集団移転を希望している。期成同盟会では月に一度の会合を欠かさず行ってきており、内部での意思疎通を重視してきた。唐桑半島に関しては、半島中央部に位置する2箇所の仮設住宅に被災者がまとまって居住していることが、集まりやすさという点ではプラスに作用している。

 気仙沼市においては、上記の2地区を含む、30地区以上で高台移転の検討が具体的に進んでいる。唐桑半島の大沢地区では、横浜市立大学と神戸大学が支援をしているが、そのように外部の専門家が支援しているものもあれば、住民だけで検討を進めているものもある。気仙沼市は、国土交通省の事業により市を支援しているパシフィックコンサルタンツと協力して、高台移転案の作成を進めており、1月中旬の時点では、次第に具体的な図面が地区に提示されるようになっている。第三次補正予算の執行を年度を越えても認める方針が示されているが、年度末に向けて、急ピッチで具体案が検討されていくことになろう。

 

3.市街地の復興

 市街地の復興について、気仙沼市の例を見てみよう。気仙沼市の中心市街地は津波により甚大な被害を被った。国土地理院によれば、気仙沼市では最大70cm以上の地盤沈下が見られ、気仙沼港一帯も満潮時には水没する状況となっている。2011年6月に再開した魚市場では、車両が進入する箇所など一部を嵩上げしたが、現在でも高潮の際には水没したままで荷さばきなどの作業をしている状態である。宮城県と気仙沼市は、2011年4月8日に建築基準法に基づき、湾岸部一帯の465.1haに建築制限をかけた。当初1ヶ月間であった制限期間はその後たびたび延長され、9月11日に全体の約4割にあたる194.8haの制限が解除され、残りの部分は11月まで延長された(詳細は以下の気仙沼市広報を参照)。最後まで延長されたのは、南気仙沼、鹿折、南町、松岩、面瀬地区で、合計266.7haである。これらの地域では地盤沈下が大きく、土地の嵩上げなどを抜本的な対策を行う必要があると判断されたからである。そして、最後まで残った地域は、建築制限が切れる11月11日に被災市街地復興特別処置法に基づく、被災市街地復興推進地域に指定された。つまり、引き続き建築行為が大きく制限されることになった。

 この一連の対応に大きな影響を受けたのが、対象地域に展開していた水産加工業を中心とする企業である。6月に市場が再開し、水揚げが始まり、15年連続の生鮮カツオ漁獲日本一は何とか達成したものの、水揚げ量は2010年の4分の1で、その他の魚種については激減した。それは、市場が再開しても、製氷業や冷凍庫、加工場がほとんど機能していないために、生鮮用しか取り扱えないからである。また、被災直後から、気仙沼市外に拠点を置く企業の加工場の撤退や移転が相次ぎ、中には気仙沼が拠点にもかかわらず、気仙沼以外で操業を再開する企業も出始めた。一方で、建築制限がかけられている地域内であっても、周辺を嵩上げし、工場を改修して再開する企業も出始め、マスコミでも紹介されている。次の世代が同じような被害を受けないために、慎重に計画する必要があるまちづくりと、一刻も早く操業を再開しないと取引先を失い、雇用も維持できないビジネスとの間に、大きなタイムスケールの相違が存在していることが浮き彫りになった。12月中旬には、市と商工会議所が連携し、住友商事と三井物産から支援を受けて、南気仙沼地区に20ha以上の用地を取得して、水産加工団地を新設する構想が発表された。しかし、この原稿を執筆している2012年2月末現在では、まだ具体的な場所や完成時期は明らかにされていない。

 市街地に展開していた中核的な産業の復興は、気仙沼市の復興の成否を大きく左右しかねない。隣接する陸前高田市や南三陸町から通勤していた従業員もいたため、周辺地域の復興にも大きな影響を及ぼしかねない。総務省は、2012年1月30日に、2011年の住民基本台帳に基づく、転出・転入超過数を発表した。福島県の自治体からの流出が激しいと大きく報道されたが、全国の市区町村の中で気仙沼市も転出超過第7位にランキングされており、2375人が減少したとされている。実に年に3%以上の人口流出である。2005年から2010年の人口減少率が5.8%であったので、その大きさがよくわかる。これは住民票を移した人々であって、潜在的な数はさらに大きくなると予想される。被災地でヒアリングをしている中で、気仙沼から転出した方々についてうかがうと、雇用と教育が大きな要因であることが推察される。被災地の産業の復興は、生活の場の復興と切っても切り離せない。

 気仙沼市の中心市街地の復興において、大きな議論を巻き起こしているのが、堤防の高さである。宮城県と東北地方整備局は、9月上旬に宮城県沿岸の海岸堤防の基準を提示した。それによると気仙沼市については、5~12mぐらいまでの幅があり、気仙沼湾奥部については5mとされた。この堤防の高さについて、特に魚町や港町の住民から異論が噴出した。県が示した堤防よりも、より高いものを整備して欲しいと要望した陸前高田市と対照的な反応となった。その理由は、観光地としても知られる気仙沼市として景観に配慮すべきだというものや、海が見えなくなることへの不安、漁業をはじめとした海に関わる産業への影響などである。堤防の存在自体を否定する意見もあり、中心市街地では大きな議論となっている。この堤防問題もひとつのきっかけになっていると想像しているが、気仙沼市は魚町・南町内湾地区の復興まちづくりのコンペティションを行うと2012年の年明け早々に発表した。今回の震災の被災地において、実際の復興まちづくりのコンペは初めての試みであろう。1月27日までが応募意向提示期間であったが、気仙沼市によると海外7件を含む、180件の登録があった。書類提出の締め切りは、2月24日で、3月上旬には審査・発表がなされる。募集時点で審査委員が公開されておらず、またアイデアは著作権者の許可なく主催者・事務局が使用できるとするなど、特殊な形態でなされるコンペティションであるが、大きな注目を集めており、地域住民の合意形成においても、一定の役割を果たすのではないかと期待される。

 

4.農林水産業の復興

 農山漁村地域は本来生活の場と生業と、それらを支える自然環境が密接につながって成り立っている地域である。今回の大震災で気仙沼市舞根地区の畠山重篤氏の「森は海の恋人」が再び脚光を浴びているが、自然環境に立脚する農山漁村地域の特徴を良く表した言葉である。地域での生業の復興と生活の復興を切り離すことができない。この点が阪神淡路大震災のような都市型の震災と大きく異なる点であるとされる。しかし、この生業の復興が今回の大震災からの復興を考える際に最も難しいものとなる。

 まず、漁村集落を考えても実に複雑な様相を見せる。漁業には個人単位での近海漁業から、経営規模の大きな遠洋漁業、養殖業など様々な形態がある。そして、漁業権を持つ多くの漁業者が半農半漁であったり、先に述べたように食品加工業で働く兼業であったりする。また、遠洋漁業は労働力という意味では多くの外国人によって成り立っている。そして、民間企業の漁業への参入が宮城県知事により提案され、大きな話題になっているが、三陸沿岸の漁業の水揚げは近年一貫して減少しており漁業者も高齢化しているのに、資源の枯渇も懸念されていて、漁獲量を漁業者・漁業団体ごとに配分するIQ・ITQ方式の導入についてはこれまでもたびたび議論されてきた3)。つまり、既に大きな課題があった中での被災であり、かつ漁村集落の居住者の多くが漁業以外を収入源としているために、地域の産業が復興できなければ結果的にそこに住み続けられないという現実がある。今回被災した石巻や気仙沼、大船渡などは食品加工業の一大拠点を形成してきたが、これらの加工業の復興が雇用の維持に大きな鍵を握っていると言える。

 また、岩手県と宮城県だけで、253もの漁港が存在しており、そのほとんどが大きな被害を受けた。地盤沈下の影響もあって、漁港として利用するためには抜本的な改修が必要であるが、集落移転と同様莫大な費用がかかることが予想されており、早々に漁港の集約という方向性が示されている。しかし、これも漁村集落の特性を考えると容易なことではない。長年隣の入江とは競争関係にあったところも多く、小規模な漁港であっても統合は容易なことではないだろう。

 規模の大きな農業を行っていた農村集落の被害は宮城県南部から福島県、茨城県の沿岸部が中心である。農林水産省は4月27日時点の農地・農業用施設などの被害額を約6800億円と見積もっており、大震災全体の被害額(16兆9千億円、6月24日内閣府発表)から比べればそれほど大きくない。津波の被害を受けた地域では塩害や排水ができないなどの被害が見られるが、今後急速に復旧が進むであろう。原発事故の影響については本稿では触れないが、風評被害もあわせて農業にとってはより深刻な影響を及ぼすであろう。

 今回の大震災で林業に限ってはあまり被害を受けなかった。これは大規模な斜面崩壊などが起こらなかったためである。逆に、岩手県住田町が震災直後に町長の専決で、町に被害がほとんどなかったにもかかわらず、地場の木材を使った仮設住宅を独自に約100棟建設し、大船渡市や陸前高田市の被災者を受け入れた。仮設住宅のコストも350万円程度で一般的な仮設住宅とほぼ同様である4)。このような例は今後の災害への備えを考える際に、大きなヒントを与えてくれたと言える。

 

5.公共交通と交通インフラの復興

 今回の東日本大震災では、阪神・淡路大震災に比べ、主要国道や新幹線の復旧が迅速で、かつ三陸縦貫自動車道が迂回路として大きな役割を果たしたことが指摘されている5)。しかし、農山漁村地域に関して言えば、平時から限定的であった公共交通と、沿岸の主要道路が津波により大きな被害を受けて、孤立状態に陥る地域が数々生じた。気仙沼市について見てみると、一ノ関から気仙沼までの大船渡線は津波の影響を全く受けておらず、営業を再開しているが、気仙沼から陸前高田に北上する路線は甚大な被害を受けている。同様に、気仙沼から南下する気仙沼線も被害が甚大で、再開の見込みは全く立っていない。気仙沼湾に位置する大島では、気仙沼港との間を運行していたフェリーと旅客船がすべて津波で航行不能に陥った。震災二日後に小型船は運航を再開したが、フェリーは1ヶ月半にわたり運休となり、広島県江田島市から退役フェリーを譲り受け、ようやく再開にこぎ着けた。その間復旧作業を行うための重機などを運ぶことができなかったため、大島の瓦礫撤去は当初強襲揚陸艦で上陸した米軍によって行われた。農山漁村地域の公共交通を支えている路線バスも例外ではなかった。気仙沼市内の路線バスを運行するミヤコーバスは、津波とその後の火災などで31台のバスを失った。震災以前から経営が厳しい公共交通事業者にとっては、今後どの程度利用者が回復するか予断を許さないような状況であり、人口の流失などを考えると路線や事業からの撤退という事態も考えられるだろう。

 震災がなくても、持続性が不安視されていた農山漁村地域の公共交通の復興を考える際には、抜本的な取り組みが必要であろう。震災前に復旧させるだけでは、数年から10年程度の期間で次々と路線の縮小・撤退が相次ぐだろう。そのことは今後高齢化が進む農山漁村地域の生活の質の低下を招くことになる。都市を対象とした研究であるが、超高齢化時代に求められる移動の質について検討した土井ら6)は、移動手段と空間・インフラの両者を総合したアプローチが求められるとし、移動手段については自転車と車の中間に位置するような1〜2人乗りの低速超小型電気自動車が望ましいとしている。震災復興構想会議の提言ではエネルギーを地産地消するスマートビレッジを提案しているが、電気自動車であれば、小規模な発電所から直接給電できるし、搭載している電池が非常時には電源としても機能する。移動速度を低速に限定することによって、現在の免許制度では免許が取得できなくなる高齢者でも専用の免許を所有することも可能であろう。さらに将来的には、農山漁村地域では交通量が少ないため自動運転システムを導入することも考えられる。今回の被災地に限らず、すべての農山漁村地域において移動手段の確保は喫緊の課題である。よって、被災地において実証実験を行い、日本全国にシステムを展開していくことが望まれる。地域のスマートビレッジ化とあわせて実施することによって、二酸化炭素の排出削減にも大きく貢献できる。そして、これらの超小型電気自動車は必ずしも個人が所有しなければならないものではない。既に、仮設住宅においてカーシェアリングの取り組みが始まっているが、超小型電気自動車もカーシェアリングすることにより新たな産業を生み出せる。通常のカーシェアリングでは、借り出しと返却が同じ場所となるのが一般的であるが、超小型電気自動車であれば低速であることを活かして、連結して移動させることも可能であろうから、ICTを駆使した配車システムを構築すれば、携帯電話で予約して、地域内の主要拠点(例えば、スーパーや病院、役所など)間を自由に利用できるだろう。

 

6.復興計画の合意形成とプラットフォームの構築

 2011年度末が近づくにつれ、被災した自治体の復興計画がほぼ出そろってきた。しかし、これらはいわば基本方針、基本計画となるので、具体的な地域の計画はこれから順次策定されていく。復興構想会議の提言でも述べられているように、復興計画の策定には地域住民のニーズが十分に反映されなければならず、かつ復興事業に住民が主体的に参画できる仕組みが必要である。住民の合意形成を支援するためとして、コーディネータやファシリテータ、さらには地域づくり計画全体を統括するマスタープランナーの必要性が、提言でも明記されている。そこでは具体的に紹介されていないが、中越地震の際に設立された中越大震災復興基金による地域復興支援員設置支援事業による地域復興支援員7)と、その後に設置された復興デザインセンターの仕組み8)がそのまま導入できるだろう。中越の復興支援員の活動は自治体により様々であるが、基本的には集落レベルの復興におけるファシリテータの役割を果たしている。東日本大震災では、これまで市町村レベルの復興計画の支援はなされてきたが、未だ集落などの地区レベルの支援はほとんどなされていない。住民の合意形成をはかるためにも早急に復興支援員を配置すべきだろう。中越地震の復興支援員制度をモデルに、2008年度から全国で集落支援員制度がスタートしている。よって、この制度を活用する形で震災復興支援員を派遣できるだろう。

 しかし、阿部・田口7)が述べているように、中越地震の復興に際しても、被災地の人口減少が進行する中で、復興支援員は難しい対応を迫られている。よって、復興支援員を支援する中間組織が重要で、それが復興デザインセンターである。復興デザインセンターでは、2009年8月の時点で8名の専任スタッフを持ち、復興支援員の育成と復興支援員を介しての地域支援活動を行っている8)。つまり、復興デザインセンターの専任スタッフは、複数の集落を俯瞰してのマスタープランナーの役割を果たしている。このような仕組みを農山漁村地域の再生に、より積極的に使おうと計画しているのが兵庫県で、震災復興支援員あるいは集落支援員に相当する集落サポーター、復興デザインセンターの専任スタッフに相当し、複数の集落を担当し、集落サポーターを支援し、マスタープランナーとして役割を果たす集落診断士、そして復興デザインセンターに相当する集落支援機構を設置するとしている9)。復興デザインセンターや兵庫県の構想と同様の仕組みを早急に導入する必要がある。今回の東日本大震災の復興に導入する際には、県単位でも、市町村単位でもなく、広域行政程度のスケールで復興デザインセンターを設置することが望まれる。そのことにより復興過程における市町村の連携がより円滑にできるようになるであろう。

 そして、このような組織作りと同様に今回の大震災において重要になるのが、プラットフォームの構築である。昨年の夏頃には、被災者の生活の場は避難所から仮設住宅に移った。しかし、多くの被災地で仮設住宅の建設が需要に追いつかなかったために、仮設住宅の入居は抽選によって決められており、地域の結束が強かった農山漁村地域においても、集落の構成員はばらばらに仮設住宅に入居している例が多い。加えて、被災を免れたり、被災が比較的軽微で元の住居で生活を始めている人々もいるが、集落と被災者が暮らす仮設住宅の距離が離れている例も多い。さらには、様々な事情により自治体外に一時的に移住した被災者もいて、復興構想会議の提案に述べられている「関係者間の徹底的な話し合い」が現実的に困難である。集落の住民が比較的近くに避難、居住していても、地区の公民館が被災していたり、仮設住宅に集会所が建設されていても、特定の集落が占有して利用するわけにはいかず、そもそも寄り合いを開く場すら存在しないという声も既に挙がっている。まずは、少なくとも近隣で生活する住民が集まることのできる場所の確保が最優先であるが、加えて地域住民が情報を共有し、意見を交換できるプラットフォームが必要である。それには既に地域づくりで実績を上げている地域ソーシャルネットワークサービス (SNS) 10)が活用できるだろう。筆者らは慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの学生たちと気仙沼市の復興を考えるFaceBookのグループを立ち上げたが、既に700名を超える気仙沼市内の方、気仙沼市出身の方、そして様々な形で気仙沼市に関わっている方々が参加している。気仙沼市では例年8月に開催されている気仙沼みなとまつりが今年は開催されないことに決定されたが、その決定以降、代替イベントを開催しようとこのグループ内でも議論がなされ、8月11日〜13日のイベントに向けて様々な意見交換がされ、新たな協働が生み出された。もちろん、FaceBookのようなSNSは高齢者にはハードルが高い。よって、まずは寄り合いを中継するような仕組みが必要であろう。これらは通信手段さえあれば、SkypeやUstreamといった既存のサービスで実現可能である。ただし、実際の活用においてはサポートが欠かせないので、復興支援員が活躍する場面の一つともなるだろう。

 

7.慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスにおける気仙沼復興プロジェクト

 筆者らは、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで3月末に気仙沼復興プロジェクトを立ち上げた。きっかけは一ノ瀬友博研究会に、環境情報学部3年で気仙沼市出身の清水健佑君が在籍していたためで、彼の実家は幸い被害を受けなかったものの家業の水産加工業の工場はすべて全壊した。震災後に、彼とTwitterで情報交換するうちに、プロジェクトを立ち上げることになり、またそのやりとりを見ていた学生や教員が次々参加を表明するという自然発生的なスタートであった。これまでに専門分野も研究室も異なる学生や教員が、100名以上関わり活動している。メンバーは、地理情報、歴史文化、都市計画、産業、観光、自然再生エネルギー、高台移転、情報発信、ワークショップなどのグループに分かれ、提案の作成やそれぞれの企画を実施している。8月11日~13日には、気仙沼市内で分析結果、提案集を発表し、ワークショップを開催した。 提案集については、市役所を含め、市内の各種団体及び個人に提供するとともに、プロジェクトのホームページ上でも公開している。この活動の特徴としては、情報発信に力を入れていて、活動をホームページ上で多言語で発信したり、現地調査に基づき作成した地理情報をWebGISで提供したり、被災地からの情報発信を促進するためにTwitter講習会を実施したりしている。先に紹介した気仙沼市の復興を考えるFaceBookのグループはこのプロジェクトの一環として立ち上げられた。このFaceBookグループでの議論がきっかけとなり、気仙沼市の被災と復興の状況を英語で発信するFaceBookページが作成され、現在では気仙沼市役所が認める公式ページとなっている。

 

8.おわりに

 ここまで農山漁村地域の復興における様々な課題や可能性を見てきたが、はじめに述べたように人口減少下においては、これまでの災害でなされてきた復興策は根本的に見直す必要がある。人口規模が縮小することを前提とした計画が必要である。そのためには、これまでのトレンドを前提としたフォアーキャスティングアプローチによる計画ではなく、将来のあるべき姿を起点とするバックキャスティングアプローチをとらなければならない。バックキャスティングアプローチは地球温暖化問題など長期的かつ広範囲にわたる課題に対応するために必要とされており、近年注目されている。地域のあるべき将来像は外部から押しつけられるべきものではなく、地域の中で(あるいは将来その地域に居住する可能性のある人々も加え)議論される必要がある。その合意形成には、一定の時間が必要だろう。一方で、目の前の生活の再建も必要であり、さしあたっての復旧・復興を行いながら、地域の将来像を議論するという難しい舵取りが必要となってくる。

 震災から1年が経とうとしているが、マスコミは盛んに東日本大震災の話題を取り上げている。しかし、福島第一原発事故の終息宣言が出され、冬には節電要請がなされなかった首都圏では、生活がほぼ平常に戻り、被災地への注目も次第に薄れつつある。厳しい財政状況の中で、政府が次年度以降も十分な予算を復興のために確保できるとは限らない。民間等からの資金や支援はPRに成功した地域に集中し、今後は被災地間の格差が広がることが予想される。政府としては、そのような事態を極力避けるべきであるが、使える資源は限られている。地域が復興する活力を取り戻すために人的資源の支援が極めて大きな意味を持つと考えられる。先に挙げた復興支援員や復興デザインセンターに加え、自治体、NPO、大学、企業等、様々な組織や個人の支援が必要不可欠である。支援を必要とする地域と、組織や個人をマッチングさせる必要がある。すでに、動き始めているシステムも存在するが、情報の共有を進め、マッチングを支援する中間支援団体が求められる。これまで日本では、なかなか中間支援団体が発達しにくかったが、来たるべく次の災害への備えの役割も考え、中間支援団体の育成が必要である。

 

参考文献

1) 山口彌一郎:『津浪と村』、恒春閣書房、1943年

2) 中島直人・田中暁子:「巨大津波に向き合う都市計画 - 津波に強いまちづくりに向けて」、『都市問題』 Vol.102, pp.4-14、2011年

3) 八田達夫、髙田眞:『日本の農林水産業 - 成長産業への戦略ビジョン』、日本経済新聞出版社、2010年

4) 建築政策編集部:「木造仮設住宅を可能にした−住田町の地域循環型経済システム−」、『建築政策』 Vol.138、pp.22−25、2011年

5) 中村仁、樋野公宏:「東日本大震災 被害状況と復旧・復興の動き」、『都市計画』 Vol.291、pp.17−22、2011年

6) 土井健司、長谷川孝明、小林成基、杉山郁夫、溝端光雄:「超高齢化を迎える都市に要求される移動の質に関する研究」、『国際交通安全学会誌』 Vol.35、No.3、pp.182−193、2011年

7) 阿部巧、田口太郎:「中山間地域の災害における「支援員」の活動」、『日本災害復興学会大会』、2009年

8) 稲垣文彦、上村靖司、阿部巧、鈴木隆太、宮本匠:「新潟県中越地震からの復興における中間支援組織の活動の変遷-中越復興市民会議・(社)中越防災安全機構復興デザインセンターの事例から-」、『日本災害復興学会』、2009年

9) (財)兵庫震災記念21世紀研究機構安心安全なまちづくり政策研究群:『多自然居住地域における安全・安心の実現方策』、2009年

10) 國領二郎、飯盛義徳編、『「元気村」はこう創る』、日本経済新聞出版社、2007年