2012年度 SFC研究所プロジェクト補助

研究課題名 生命機能に対する自然選択圧の解明

所属 環境情報学部
氏名 内藤泰宏

背景

自然選択の本質は、生命情報の自己複製速度への干渉である。より環境に適応した情報は、より速く複製し、個体数を増やし、より多くの環境資源を得る。逆に、他の情報より緩慢にしか増殖できない情報は、環境中での頻度を減らし、やがては絶滅する。
ある情報が複製速度に与える影響を知るには、その情報が、物理世界でどのような生命システムを発現し、それはどういった機能を持ち、その機能が生物個体の増殖速度にどう影響するかを知らなければならない。現生生物については、生命分子の機能が克明に分析されている例も少なくないが、それらがなぜ選択されたかを理解するには、生き残った生命システムとの競争に敗れ、淘汰され消え去った分子や情報に関する知見が欠かせない。しかし、現生するすべての生物は生命進化の競争を今日まで生き延びた「勝者」である。化石記録に残る生物も、それぞれの時代で個体数を増やした勝者である。分子進化系統樹は、勝者の分岐過程を描くものであり、敗者に連なる枝は描かれていない。
我々は、生命システムが、盲目的に進化してきたとは信じがたい、巧妙で精緻なデザインを有していることを知っている。しかし、生命システムは、巧妙で精緻であるばかりでなく、突然変異によって存在しえたであろう、類似するデザインとの自然選択の競争を勝ち抜き、生き残ったものでもある。生き残った生命システムは、どういった自然選択に曝されてきたのか、それを知ることにより、個々の生命システムが生きてきた環境についての理解も深まるだろう。
本研究では、高精度の数理モデルが構築されている心筋細胞を題材に、その設計が、「可能だったはずの」さまざまな設計の中からどういった理由で選択されてきたかを探った。

目的と方法

心筋細胞は心臓の主要な構成要素で、電気的に興奮し、収縮力を生みだす。電気的な挙動は、イオンチャネルなどの膜タンパク質によって構成される。リン脂質からなる細胞膜が絶縁体の役割を果たし、細胞膜を貫通するタンパク質が状況に応じてイオンを通す通路を開くことによって、細胞膜によって隔てられる細胞内外の電位差が複雑に変化する。これらの総体を膜興奮機構と呼ぶ。膜興奮に関わる分子に関する知見に基づいた数理モデルの集合が、心筋細胞の電気生理モデルである。
心筋細胞は生命を維持する上で不可欠の細胞のひとつだが、胎生期から新生仔期、成体期にかけての発生過程の進展とともに膜興奮機構が大きく変化することが知られている。申請者らは以前、発生過程における心筋細胞の膜興奮機構の変化を、代表的な4段階について数理モデル化した(Itoh et al. 2007)。
本研究では、この4段階のモデルを基盤に、4段階の中途を結ぶ経路について、特に、自律拍動が見られる胎生初期から、自律拍動が消失する胎生後期にかけての変化について、数理モデル化とコンピュータ・シミュレーションを用いて探索した。
この期間に活性量が変動する9つの要素について、活性が変化するタイミングの順序について512通りの数理モデルを構築し、シミュレーションを実行し、心筋細胞として不適切な挙動を呈するモデルを除外することにより、心筋細胞にとって適切な「変化の経路」を推定した。

結果

シミュレーションを実行した512通り数理モデルのうち、208モデルは、胎生後期の心筋細胞に近い安定した静止膜電位を呈した。160モデルは、胎生初期に近い自律的な活動電位を呈した。残る144モデルでは、不安定な活動電位が観察された。9つの可変要素の組み合わせと、不安定状態の対応を解析することで、過分極誘発性電流、内向き整流カリウムイオン電流、持続性内向き電流、L型カルシウムイオン電流、ナトリウムイオン電流の5つ組み合わせが重要であることが示唆された。
この研究成果はポーランドで開催された「Computing in Cardiology 2012」において、環境情報学部4年 大久保周子君によって口頭発表され、現在、論文投稿中である。

展望

本年度の探索から、数理モデルとシミュレーションを用いて、現実の細胞システムの近傍の「可能だが実在しないシステム」のダイナミクスを計算し、これを現実の細胞と比較することによって、現実の細胞の設計の妥当性や、その設計の成立に際して付加された自然選択圧について推測できることが示唆された。 今回は、自然選択圧については、自律拍動の消失や筋収縮力の維持など、予め狭い範囲に設定した中での探索にとどまった。今後は、よりオープンに自然選択圧を探索する研究へと展開していきたい。

学会発表

(国際学会 口頭発表)Okubo C, Sano H, Naito Y, Tomita M, Prediction of Potentially Unstable Electrical Activity during Embryonic Development of Rodent Ventricular Myocytes, Computing in Cardiology 2012, 2012.9.9-12, Krakow, Poland