1998年度森泰吉郎記念研究振興基金 研究助成金報告書

 

慶應義塾大学政策・メディア研究科博士課程1年佐々木俊一郎

ネットワーク・コミュニティー・プロジェクト所属

 

研究題目

フリーソフトウエアの取引のゲーム理論的分析

 

 

研究概要

ゲーム理論を援用して、インターネット上で取引されているフリーソフトウエアの開発過程におけるユーザ間のインセンティヴの構造および従来の経済取引との相違点を分析する。

 

 

研究の目的

従来の経済取引は、財の生産や配分に対して常に対価が支払われることが前提となる双方向のゲームであるのに対し、インターネット上で無償で配布されているフリーソフトウエア(たとえばLinuxEmacs等)は、必ずしもソフトウエアの生産・配布に対する対価の支払いを予定していない。それにも関わらず、フリーソフトウエアの開発は、多くの人々の自発的な努力、すなわち、ソース・コード提供・改良やバク・レポートの報告によって成立している。これらのインタラクションの中でフリーソフトウエアは改善され、広く流通し、実際フリーソフトウエアのいくつかは、我々の日常のコンピューティング生活において必要不可欠のものとなっている。

本研究の第一義的な目的は、フリーソフトウエアの開発・改良作業における多くの人々の自発的かつ無償の協力はどのような要因によって引き起こされるのか、そのインセンティヴの構造を明らかにすることである。さらにこの事例は、法的な拘束力や政府による規制といった従来のenforcing powerが適用困難なインターネットという分権的な社会においても、人々の協調的行動、すなわち、自生的秩序が存在し得ることを示唆するものであることを示す。

 

 

研究の枠組み

以下のような枠組みで研究を行った。

(1)理論サーヴェイ

経済取引におけるインセンティヴの問題、とりわけそこに潜む機会主義的行動への誘因の問題の所在とそれへの対処となるべきガヴァナンス・メカニズムについて、ミクロ経済学におけるいくつかの理論を援用して整理した。具体的には、機会主義的行動への誘因を未然に防ぎ、取引の安全性を確保するためのガヴァナンスのメカニズムについて、近年、企業組織やコーポレートガヴァナンスの分析用具として確立されつつある契約理論における所有権のアプローチの文脈において分析を行い、enforceabilityの限界について明らかにした。また、特定のメンバーの間での長期的な関係がある場合には、「評判」を守ることによって自発的な協力が維持されうるというメンバーシップによるガヴァナンスについて、繰り返しゲームの文脈における「フォーク定理」を援用してその内的なメカニズムを示した。

(2)フリーソフトウエアの取引のモデル化

フリーソフトウエアの取引について取り上げ、関係者へのインタヴューをもとにして、いくつかの具体的な事例を考察した。その上でフリーソフトウエアの開発過程およびその取引を簡単なゲーム理論のモデルとして定式化を試みた。ここでは、フリーソフトウエアの開発から得られる便益をどう評価するかによってゲームの構造そのものが変化し、フリーソフトウエアの取引については、コーディネーションゲームとして定式化が可能であることを示している。また、進化ゲームの理論を応用して、ある社会におけるフリーソフトウエアの開発協力者の比率を考慮にいれた場合に、プレーヤー同士の最適反応がどのように変化するのかを検討した。

 

 

研究内容

1 経済取引における機会主義的行動への誘因

 新古典派経済学の文脈における合理的主体を前提とすれば、経済取引の過程において人々は個人的な便益を追求するが、これは必ずしも他人の便益あるいは彼または彼女が属する社会全体の便益と一致しない。経済取引における中心的課題であるインセンティヴの問題は、ここに起因する。従って、取引当事者が自分の便益を最大化しようとすれば、そこには必然的に機会主義的行動への誘因が潜んでしまうことになる。ここではそれら経済取引に必然的に含有されうる機会主義的行動への誘因についていくつかのモデルを参考にして、特にそのインセンティヴの構造に焦点を当てながら検討した。

 

2 所有権によるガヴァナンス

 それらの機会主義的行動への誘因を未然に防ぐためにこれまで採用されてきたガヴァナンスのメカニズムについて検討を行った。特に、契約理論や所有権のアプローチを援用して、制度・組織内部において、いかにして取引の安全性が確保されるかを検討した。所有権の設定とは、機会主義的行動への誘因の発生の可能性を未然に予防するために、事前の契約(公的および私的合意)を明示化し、契約違反者に対しては国家権力ないし組織内部の権力機構が処罰を与え、事後的な紛争については、裁判所等の公正な第三者によって判定されうるものとするメカニズムである。このことにより、多数の取引当事者が出会うrandom matching的な状況でも取引の安全性は確保されることになるが、実際には、契約に書いた内容が現実に履行されたか否かを第三者が判断できる場合しか合意の履行を担保できない立証可能性の問題や、契約に不満ならいつでもその組織を脱退するオプションを持っている外部オプションの存在などがあり、このメカニズムにおいてもenforceabilityの有効性には限界があることが示されている。

 

3 メンバーシップによるガヴァナンス

 2のように完全完備の契約が存在しない場合では、機会主義的行動を抑制するための別のメカニズムが必要となる。特定のメンバーの間での長期的な関係がある場合には、「評判」を守ることによって自発的な協力が維持されうるが、不特定多数の出会う市場の中に長期的関係を作り出すには、参入の困難な「メンバーシップ」の内部でレントを共有すると同時に、そこから追放された者は二度と正規のメンバーになれないようにする社会的なmonitoringsanction の仕組みが必要である。ここでは、「繰り返しゲーム」のモデルおよびその応用例を用いて、長期的関係性や評判の役割よるガヴァナンスのメカニズムを検証した。

 

4 フリーソフトウエアの取引

 現在インターネット上では様々なフリーソフトウエアが配布されているが、特に、LinuxApacheNetscape Communicator 5.0等について検討した。Linuxは、Linus B. Torvaldsによって開発が始められたが、そのソースコードを公開して利用者が自由に機能拡張、アプリケーションの開発と移植、ドキュメントの作成、ローカライゼーション等を行い、世界中に広まっている。このようなLinuxの発展は多くの利用者の自発的な協力によるものであり、メーリングリストやニュースグループ、BBS等を基盤にして世界中の利用者の情報交換および共同作業が行われている。また、Netscape Communication社は、Netscape Communicatorの次期ヴァージョン5.0のソースコードを多くのベンダーに公開して、「バザール方式」で開発することを決定した。両者とも、多数のプログラマのヴォランタリーな協力をその開発基盤としているが、その自発的協力を誘発させるものは何だろうか。

 

5 コーディネーションゲームとしてのフリーソフトウエアの取引

 フリーソフトウエアの取引における人々のインセンティヴについて簡単なモデル分析を行い、本稿の中心的な結論を述べる。インターネットの登場によって、同じ利害関心を持つ同質的なメンバー同士での直接的な取引が非常に低いコストで可能になった。ここにおいては、利害対立の可能性を低めることができるので、機会主義的行動への誘因そのものを抑えることができる。従って、取引当事者同士が事後的な便益 (ex post benefit)をどう評価するかという基準をもとにして、ゲームの構造自体が変化し、フリーソフトウエアの取引においては、「お互いが協力すればお互いの便益が増加する」というコーディネーション・ゲームとして定式化が可能となる。ここでは、2、3で見たようなガヴァナンスのメカニズムは必ずしも必要ではなく、むしろその集団内でのコーディネーションのメカニズムが重要になる。

 

6 最適反応のダイナミクス

本研究における結論の拡張の第一歩として、第5章で示した「コーディネーション・ゲーム」の最適反応の変化を検討した。まず、進化ゲームの理論を応用して、ある社会におけるフリーソフトウエアの開発協力者の比率を考慮にいれた場合に、プレーヤー同士の最適反応がどのように変化するのかを検討した。その上で、あるフリーソフトウエアの開発に協力することから得られる便益がそのソフトウエアの所与のシェアの増加関数となる「ネットワーク外部性」がフリーソフトウエアの開発過程において存在することを示した。

 

 

研究のアウトプット

本研究は、19977月に提出された修士論文"The Analysis of Free Software Transaction -A Game Theoretical Approach-"としてまとめられた。

 

修士論文"The Analysis of Free Software Transaction -A Game Theoretical Approach-" 和文概要

修士論文"The Analysis of Free Software Transaction -A Game Theoretical Approach-" 英文概要

修士論文"The Analysis of Free Software Transaction -A Game Theoretical Approach-" 全文

 

 

学内発表

199859日 修士課程中間発表会

1998724日 修士課程最終発表会

その他、プロジェクト・ミーティングで発表

 

 

学外発表

199865日 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター 「情報化と経済システムのガヴァナンス」プロジェクト フリーソフトウエア分科会にて発表

1998717日 同上