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実録!ビヨンド社のイノベーション ~ G.H さん

実録!ビヨンド社のイノベーション第3回、A.Nさんに「ダメモトでやってごらん」と、言われるがままに飛びこんだところ、なんと、ビヨンド社ITビジネスの立役者と言えばこの方、現ビヨンド社執行役 EVP G.H 敬治 さんへのインタビューが実現しました!丁寧に考え抜かれた一言一言に、大企業ビヨンド社に今までになかったITと言う大きな流れを作ってきた方の聡明な視点と言うものを垣間見るような思いでした。私のつたない質問にも、真正面から、的確に適切に真剣にお答え頂き、まったくもって、私などにはもったいない限りの経験です。IC Recorderで録音された内容を聞き返す度に、その言葉からは一貫したストーリーが紡ぎだされる、それほど言葉一つ一つにに重みを感じるのでした。

ビヨンド社、ITへの系譜一歩一歩

ビヨンド社が電卓を作っていた---そんな歴史をご存じの方は社内にも決して多くはないのではないでしょうか。1970年代初頭、当時既にビヨンド社内部にあった半導体技術を元にリリースされたのが電卓、BEBOXなのです。電卓と言っても初代機は価格26万円。当時の半導体技術の結集とも言うべき高級電卓です。この商品はファウンダーD.Aさん、E.Nさんらと肩を並べ「D.Aが技術を見つけ、Y.Eがつくり、E.Nが売った。」と後に言われる技術の人、Y.E元社長によってハンドルされたと言います。残念ながら、BEBOXは、KA社らとの競争が激化する中、E.Nさんの判断でディスコンとなりますが、ビヨンド社ITへの系譜は、BEBOXから始まったと言えます。

35周年記念事業

時代は携帯型テープ音楽再生機やビデオ再生機が華やかなりし1978年ごろ。35周年事業として、E.Nさん会長プロジェクトとY.Eさん社長プロジェクトの2つが始まります。当時のビヨンド社には、なんと4ビットマイコンを自社で開発、製造。社内いくつかの商品で適用されていたと言います。Y.Eさんは、これらディジタル集積回路技術を用いたIT系製品をちゃんと商品化せねばならない、と考えていました。しかし時代は、AP社が伝説のパソコン初代機をリリース(1976年)したような時代です。IBM PCのリリースに至っては1981年を待たねばなりません。そんな時代背景の中、Y.E社長プロジェクトとして始まったのが、英文ワープロ WD85 プロジェクト『イオタ』です。

全部が"手造り"! ワードプロセッサ

日本にはまだワープロなんて言葉などなかった当時。イオタはCPUに、当時最も使われていた8bit CPUである、ZR社CPUを採用。1980年代のマイコン・ブームを知る方ならわかると思いますが、当時はまだOSなどと言う概念は市民権を得ていません。C言語などと言ったプログラム言語も、高級言語と言われる通りメインフレームのような巨大なコンピュータでしか実現されていません。よって、ライブラリや外で作られたソフトウェアを「全く」アテにすることなく、ほとんどCPUの命令セットと1対1であるアセンブリ言語を用いてごりごりと開発されます。

Macかと思う洗練されたデザインのプロダクト(写真)はビヨンド社がリリースした英文ワープロ、WD85 Model 10。なんと小型FDドライブを2基搭載。当時、もっと大きいFDが当たり前だった当時、しっかりとした耐久性を備えた小型FDを、このワープロのために作ってしまったと言います。いや、今の人は全く知らないと思いますが、昔の5インチFDって本当に磁気版を薄いプラスチックで包んだような、ほんとペラペラだったんです。それだけではありません。当時はキャラクターベース方式の表示しかなかったCRTにWYSWYD機能を盛り込むべく、ビットマップばりの工夫を凝らしたり、ポストスクリプトと言った印刷のための標準インターフェースが決まっていないこの時代、プリンターの印刷単位はピクセル単位で"作り込んだ"。そのエレガントさの裏側は、とんでもない技術的知恵と努力の集積であったと言えます。

(参考) キャラクター方式のCRT

1980年代、まだ画像を、ピクセル単位のデータ列<ビットマップ>にして送りつけると言う方法は、転送レートの問題からアイディア段階に過ぎず、予めキャラクター(文字)単位のビット配列をCRT側で持って置き、対応する文字の表示指示によって画像を生成します。従って、予め用意された表示パターンしかサポートされず、複雑な表示を行うには相当の苦労を必要とします。

業界の必然としての、AVとITの融合

BXG-88、PUTEC… 8bit マイコン、AVとITの融合への足音

一連のIT技術は、マイコン(1980年代、パソコンの事をマイコンと言ったのですね)を世に送り出さんと厚木に集結します。同じZ80を用いたCP/M搭載の普及型高級機 BXG-88 と、ASCIIが提唱するオープンアーキテクチャMSX規格の8bitマイコンと、次々にリリースしていきます。有名アイドルがCMしていたのを覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。そのようなIT系商品への挑戦は、次第に、音楽や映像がコンピュータに統合されていくことを予感させて行きます。しかし、Windowsもまともに動かなかった時代、今では当たり前のAVとITの融合も、決して社内で簡単に理解されるものではなかったと、G.Hさんは振り返ります。そんな中、G.HさんはA.NさんやH.Aさんらと、動画をmpegフォーマットにしてCDの中に入れてしまう構想、CD-ROM、CDI、MMCDと言った仕事を進めます。

映像をCDに入れよう!業界の必然としてのAV ITの融合

コンピュータ用CD-ROMを最初に商品化したのは、かのスティーブ・ジョブス率いるアップルであり、業界で最も熱心に推進していたのはかのマイクロソフト社、ビル・ゲイツだったと言います。つまり、コンピュータ業界にとって、AV IT の融合は、業界全体の流れであった、とG.Hさんは振り返ります。そして、それは実際のものとなっていきます。

遅れて到着した本命、新型PCシリーズ

AVとITの融合は目前、もう一度、コンピュータのビジネスにビヨンド社として追いつきたい。しかし、当時、トップマネージメントとして、一連のIT系ビジネスを見ていた、E.Eさんは、「もう席は残っていないかも知れない」と漏らしたと言います。しかし、そんな中、F.Mさんの鶴の一声で、新型PCシリーズは立ち上がっていきます。Windows95後期に立ち上がった新型PCシリーズ、その後の OS-55でAV ITの融合は一つの終着をみた、とG.Hさんは語ります。しかし、その道は常に平易なものではなかったと言えるでしょう。

イノベーションに向けて

G.Hさんは「僕は常に裏街道だったよ」と苦笑いします。ビヨンド社にはオーディオ・ビジュアルで百戦錬磨の兵(つわもの)達によって支えられています。そんな中、コンピュータの能力が上がるにつれ、ソフトウェアが現在のAV商品にとって代わるだけのパフォーマンスを持つ、と言う言説は、当時、簡単に受け入れられるものではありません。しかし、G.Hさんは業界全体における、AV-IT融合の流れを、メンバー一人一人が各々感じ取って実践していた、とふりかえります。

業界の直感に、猪突猛進

新型ノートパソコンの立ち上げは、本当にまともなものではありませんでした。それは私もその現場にいたから良く分かります。初代ノートパソコンはオフィスソフトをインストールすると立ち上がらなくなる問題と言うのが発覚し、パッチ・ディスクを持って量販店を行脚する羽目になったことを懐かしそうに振り返ります。恐らく、当時老舗のコンピュータメーカーであった、NC社、FT社らは、ビヨンド社の素人ぶりを嘲笑したかもしれません。しかし、商品を立ち上げるのに、玄人じゃなくたって良い。なんとかなっちゃうものだ、とG.Hさんは笑っておっしゃいます。業界の流れとしての AV-IT の融合。それに向かって一致団結できたからこそ、世に新しいものを問えたと言えるかもしれません。

「ワイワイ ガヤガヤ」、目標に向かって走り続ける「素人集団」

経営学や組織論なら、パフォーマンスの高い専門家集団が、イノベーティブなものを作り上げると言うかもしれない。しかし、実際の現場は、そんなものでもないことが多い。「こういうものを作るべきだ」「こういう面白い技術で世界を変えるんだ」と言う気持ちが、その商品を軸に「ワイワイ ガヤガワ」しながら、前に進み続ける。G.Hさんはビヨンド社の企業文化をそのように分析しています。分野は素人集団だったとしても、しかしその気概はみな一致団結している。経営視点からは打破できない物をそういうものが打破していく。

今一番面白そうな分野に自ら入って行き、参加し、世の中を変えて行こうと言うモチベーションこそ大切、と言います。その意味で、「今楽しんでいますか」と。楽しんでいなければ、恐らく、後発ビヨンド社がVAIOをリリースすることはできなかったでしょう。WD85、BXG-88らもまた然りでありましょう。今現在、かつてないほどの速度で変わりゆく技術トレンド、ビジネストレンドの中、どこを自分の「楽しむ」場とするか。G.Hさんはそう問いかけているように思いました。

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