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実録!ビヨンド社のイノベーション ~ F.A さん

実録!ビヨンド社のイノベーション第5回は、新型ノートブックパソコン圏では「ゲンさん」の愛称で知られる、F.A 進 さんです。超薄型ノートパソコンの立ち上げを達成したことで知られるゲンさんですが、ご自身を「調整型」と呼ぶ、とても謙虚な方です。ゲンさんもまた、私が新型ノートブックパソコン設計時代に大変お世話になった方の一人です。ちなみに、私は超薄型ノートパソコンの一部BIOS仕様とProgramable Power Keyと呼ばれる、当時は珍しかったパワーON機能付きショートカットキーの設計について、BIOS仕様、Driver設計、アプリケーションへの仕様調整を担当していました。超薄型ノートパソコンの逸話については、A.Nさんセクションなども併せてご参考にされてみてください。当時はA4ノートパソコンのA.Nさん、超薄型ノートパソコンのF.Aさんでした。そして、私にとってもゲンさんは「超薄型ノートの人」でしたが、ゲンさんの歴史はビヨンド社ポータブル・コンピュータの歴史そのものであることが、インタビューで分かります。

超薄型ノートパソコン誕生秘話

藤沢の居酒屋『藩』で、ゲンさんが悔しそうにお酒を呑む姿を私は覚えています。超薄型ノートパソコン、プロジェクト・ネームYebisu2の前身であった、Yebisu1のプロジェクト中止が決まった時でした。

当時、Notebook 新型ノートブックパソコンの部隊には、2つの設計チームが走っていました。DELL OEM時代のアーキテクチャをそのまま継承して立ち上げるゲンさんの設計チーム(プロジェクト名:Yebisu)と完全なビヨンド社設計で挑戦しているA.Nさんのチーム(プロジェクト名:Benten)です。スケジュールはYebisuが先行、次いでBenten(後のA4ノートパソコン)が登場する筈でした。Yebisu1は主にゲンさんが嘗て設計PLを行っていた携帯端末マギックポッド部隊の元メンバー。メンバーのコンピュータに対する思いは高く、その夢を一人ずつ汲んで検討されたYebisu1はとても大きなサイズのノートPCになっていた、とゲンさんは当時を振り返ります。EVT試作出図まで終わっていたこのYebisu1、当時の部長であるG.Hさんが「待った」をかけます。

Yebisu2を立ち上げよう!

藩の吞み会から心機一転、ゲンさん率いるチームのYebisu1改めYebisu2への挑戦が始まります。チームのモチベーションはとても高い。しかし、その思いを汲めば汲むほど、ありきたりのノートPCになってしまったと言います。そんなゲンさんの隣にいたA.Nさん、「みんなが求めているものはこんなものじゃなくて、もっとカッコよくて薄いものだろう?!」と一喝。一気に目が覚めた、と当時を振り返ります。そこから、Yebisu2は、『B5でカッコイイ』を合言葉に、設計検討がみんなで行われていきます。ここで特徴的なのは、コンセプチュアルを目指しつつ、みんなでその仕様検討したところでしょう。G.Hさんの言う「ワイワイ・ガヤガヤ」がここにも見えます。みんなで作りたいモノを共有しながら、且つコンセプトに従って割り切った製品設計を行ったのです。

当時のエピソードに、当時、8.45mmの1GB HDDか、9.5mmの2GB HDD(容量はうろ覚え)を考えた時、ゲンさんチームは8.45mmの採用を選びます。「薄さ」への拘りはPCとしての当時当然と考えられていたHDD容量の大きささえ割り切ったのです。RGBの出力ポートも割り切ってポートリプリケーター(写真)側に出してしまいました。メモリのフタが美しくないからやめよう、と言う意見さえ出たと言います。これは検討の結果、却下されたと言いますが、兎に角ひとつひとつが議論に議論を重ね、喧々諤々、「みんなで決めた」のです。

死人が出かねないほど、大変なんです!!

超薄型ノートパソコンの特徴と言えば、四面マグネシウム合金。これはそれでなくとも加工が難しく、資材部の猛反対を押し切って「カッコよさ」に拘った結果だと言います。しかし、一つ諦めた「カッコよさ」があったと言います。右の写真は、超薄型ノートパソコンより2年後に発売された後継機、高性能超薄型ノートパソコンの背面写真です。新型ノートブックパソコンの文字がヘコんでいるのが分かるでしょう。これは、ゲーム機器のデザインなどで知られる、B.Bさんの拘りです。しかし、これはとても難しい製造技術の賜物であり、初代超薄型ノートパソコンの時代には、不可能な芸当だったのです。当時、B.Bさんは、そのデザイナーとしての威信をかけて、当時社長の安藤さんにヘコ文字を進言。ゲンさん初めメカ担当者(M.Eさん)が呼び出されます。しかし、当時、G.Hさんから現場の部長を交代した、E.Oさん、「死人が出かねないほど、大変なんです!!」。四面マグネシウムを押し切ったのがE.Oさんならば、設計的無理を即座に判断したのもまた、E.Oさんだったとのことです。結局、この時の新型ノートブックパソコンロゴを「ヘコ文字に見えるような」印刷であったことを覚えていらっしゃる方もいることでしょう。

しがらみの少なかった幸運

このような、最終的には割り切ることこそあれど「自由闊達に」「みんなで決める」ことを可能にしたのは、既にYebisu1がディスコンとなり、A4ノートパソコンがビジネスの表舞台に期待されている状況の中、ビジネス的なプレッシャーと言うしがらみが少なかったことが、このような「自由闊達」な「ワイワイ・ガヤガヤ」を担保したのではないか、ゲンさんはそうおっしゃいます。利益優先だと組織はどうしても利益に対して最適化せざる追えません。「赤字は国賊」と言ったのは、ビヨンド社役員のどなただったか。ブレストをやりながら、やれることをお互いが理解して行き、そのアサインは決定こそゲンさんがされるものの、基本的には自然と役割が決まったと言います。

超薄型ノートパソコンへの道のり

超薄型ノートパソコンは、マギックポッドの部隊出身の方々が主体となっていた部隊です。ゲンさんによると、超薄型ノートパソコンへの人材の集まり方は、ビヨンド社におけるコンシューマ向けコンピュータービジネスの流れにあるようです。ゲンさんは電気回路設計のエンジニアですが、BXG-88aからPLを務め、その後、PUTECの部隊と合流してPalmTopと言うハンドヘルド・コンピュータ(写真)の後継機に関わっています。そのあたりの知り合いが、新型ノートブックパソコン立ち上げに関わって言ったため、「とても自然に人が集まった」印象だったとのことです。ゲンさんは「それまでビヨンド社はコンピュータ関係で鳴かず飛ばずだった。超薄型ノートパソコンでやっと恩が返せた思い」と語ります。これらコンシューマ向けコンピュータ系商品の歴史は、設計者ゲンさんの歴史そのものでしょう。或いは、ゲンさんの歴史に裏付けられた、目に見えぬ人の繋がりもまた、自由闊達なる組織のための立役者だったのかも知れません。

奥様の進言

ゲンさんの歴史に一つ、特筆するべきエピソードがあります。MagicLinkの設計のため、USに赴任していたゲンさん。当時、F.MさんがIT社との協業、GIプロジェクトでデスクトップPCの立ち上げがUS主導で行われる代わりに、マギックポッド部隊は帰任になることに。その時、マギックポッド部隊のメンバーには2つの選択肢がありました。USに留まり、インテル協業でデスクトップPCを立ち上げるか、日本に戻ってノートPCを立ち上げるか。USデスクトップPCは、IT社がその回路設計を行うことが決まっているため、設計的に行うことは少ない。しかし、まだUSに来て1年半であったゲンさんは、もう少しUSに留まるべきなのでは、と迷います。

そんな時、背中を押したのが、奥様の一言「あなたは、自分で小さいオリジナル製品を作りたいのじゃないの?」だったと言います。もし、その言葉に従って日本に帰任しなければ、超薄型ノートパソコンも生まれなかったと言って間違いないでしょう。

最後は「人間力」

ゲンさんには、社内の少林寺拳法部で鍛錬する一面もあります。ゲンさんに拠れば、少林寺拳法は中国の方法をそのまま輸入したものではなく、戦後日本の「心の支え」となるべく「本当の強さ」を求めたものであることを教えてくれました。ゲンさんは組織もまた、人間力としての強さがなくてはならない、と言います。超薄型ノートパソコンは確かに幸運にも出荷できた角度があるかも知れない。しかし、それもゲンさんの人間力のなせる技なのでしょう。ゲンさんから教えて頂いた、少林寺拳法の開祖 宗 道臣(そう・どうしん)のお言葉を下記に記載して、今回のレポートを閉じようと思います。

人、人、人 すべては人の質

すぐれた一人の人間に、まず自らをおく。

一人のいい息子が生まれたということによって、家庭がころっと変わります。一人ぐれた前科者が出ると、その家庭がみんな迷惑する。こういうことは諸君の周辺にごろごろしてるでしょう。すぐれたもの一人が、いかに重要かということである。 我々は、まずそのすぐれた人間にまず自(みずか)らをおこうではないか、そして周辺にもいい影響を与えようではないか、こういう教えなのだ。

すべては人間の質の問題だ。

この世の中のこと、すべて人間が行い、人間が支配し、管理し、計画しておる。人間の質の問題ですよ、これはね。よくなるのも、よくならんのも、要するに人ひとり、そのポストに立っておる人の心の持ち方にある。こういうことで心の改造をやろうとしているのが宗教、特に金剛禅の大特徴である。

考え方を変えることによって理想境ができる。

人間の考え方を変えることによって理想境ができるという私の考えは、決して誤りではない。これは、つくらなければならんものです。半ばは相手の幸せを考える者がふえたら、世の中、本当によくなる。これは間違いありません。

引用元:創始者 宗道臣について|少林寺拳法公式サイト|SHORINJI KEMPO OFFICIAL SITE:

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